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とうに夜半を過ぎて 

明日も忙しいというのに、とうに夜半を過ぎて
この時間、何をやっていることやら。

本屋でふと、R・ブラッドベリの「とうに夜半を過ぎて」という短編集を手に取り、つらつらと読んでいる。

その第一話は「青い壜」という短編。今から少し遠い未来、人類が開拓し、そして棄て去った火星の、廃墟となった都市を、一人の男が伝説の「青い壜」を捜し求めて、あてのない旅を続けている。

それが何なのか、中に何が入っているのか分からない、ただ伝説の「青い壜」を捜し求めて。

『その部屋を終り、次の部屋を襲おうとベックは呼吸をととのえた。捜索をつづけるのはなんだか恐ろしいような気持ちだった。今度こそ発見できるのではないかと思うと、恐ろしいのだ。捜索が終れば、ベックの人生から意味が失われてしまう。……

計画的に事を運べば、壜を発見するかもしれぬという期待は、ベックの全人生を縁まで満たしてくれるだろう。気をつけて、あまり捜索に熱中しすぎないようにすれば、あと三十年は保つだろう。問題は本当は壜ではなくて、走ったり追いかけたりの捜索そのものであり、砂塵や死んだ町々であり、捜索をつづけること自体なのだということを、自分で自分に認めさえしなければ。』

『人は闇から光へ、子宮からこの世界へと出て来て、自分が本当に求めているものを、どうやって見つけたらいいのだろう。』


私は常々、この世には二種類の人間がいるのではないかと思っている。「青い壜」を捜し求める人間と、そうでない人間。「生きる意味」という病に犯された人間と、そうでない健全な人間。

この小説のベックと、そしてもう一人の作中人物、クレイグという男のような人間。

『いや。クレイグは違う。クレイグはたぶん遥かに幸運なのだ。この世界にあって、少数の人間は動物に似ている。何一つ問いかけることをせず、水溜りの水を飲み、子を産み、子を育て、人生が良きものであることを一瞬たりとも疑わない。それがクレイグだ。クレイグのような人間は少数だが確かにいる。神の御手に包まれ、宗教や信仰を特別の神経のように体内に収め、広大な保護区のなかに生きる幸福な獣たち。数十億のノイローゼ患者にとり囲まれた正常人。彼らの望みは、いずれ自然死を死ぬことだけだ。今ではなく。いずれ。』(『 』内の訳はいずれも小笠原豊樹)

クレイグのような人間が幸せなのは、議論の余地がない。ブラッドベリもクレイグのことは、どこかほのぼのとした好感の持てる筆致で描く。しかし病むのが人間であり、そこから逃れられないのも人間である。その人間存在に対しても、ブラッドベリの筆致は慈しむような優しさに溢れている。

もう遅い。
今日はそろそろ寝るとする。
もう一つの世界へ。
意味と無意味も中間領域に。

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