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Replay (リプレイ) 

replay

 大腸癌の手術で一ヶ月ほど入院し、退院後、食事のこともあり、3週間近くも実家に厄介になって毎日ぶらぶら怠惰に過ごしていたが、永久にそうしている訳にもいかず、数日前誰もいない自宅に戻ってきた。だが相変わらずのダラダラ生活、これでかれこれ二ヶ月近くも仕事もせずに毎日自堕落な生活をしていることになる。「小人閑居して不善を成す」と言うが、私の場合、積極的に不善をなす訳ではないが、このようにたっぷり有り余った時間を、徒然に散歩したり本を読んだり、ブログを書いたりと徒らに過ごすばかりで、何ら生産的なこと、クリエイティブなことに気持ちが向かない。危機的な状況に直面した時にその人の本質が分かると言うが、案外こういう暇な時にも人間の器の大きさがはっきりするのだろう。「小人閑居してお里が知れる」である。

 小人閑居してお里が知れるついでに書くと、暇なのでパソコンやハードディスクの中を整理していると、以前しばらく付き合っていた美帆 (漢字は少し変えてあります) というキャバクラの女の画像が一枚出てきた。すべて消去し、ついでに脳ミソのハードディスクからも消去したはずだったので、この綺麗可愛い若い女と、いい年こいた大人の、内心はニヤけているが、それを押し隠すような渋面の、突然の2ショット写メは、恥ずかしい過去の不意討ちを喰らったようで、少し狼狽えてしまうと同時に、当時のお馬鹿でお目出たい日々を思い出し、甘ったるい感傷にしばし耽ったのであった。まぁ、容姿、性格も含めてかなりイイ女であったのは確かだろう。

miho

 いろいろ想い出はあるが、私の呆れるほど不埒なろくでなし振りを一つ披露すると、今はもう無きジャズハウス「S・J」で、ジャズの生演奏を聴きながら、腰をぴたっと付けて隣に座るその彼女のその腰に手を回し、周囲に分からぬようスカートの下に手を滑り込ませ … (以下省略)。まぁ、そんな程度の低い奴なのである、私という男は。今さら隠しもしない。とにかく、彼女は気の強い女ではあったが、その当時、そういう破廉恥な事を黙って許すほど私を受け入れていたのは確かである。もちろんすでに男と女の関係ではあったのだが…。

 彼女は、夜のキャバクラはバイトで、昼はちゃんと定職を持っていた。父親はDV夫で、彼女が幼い頃に母親と離婚し、彼女は母親と二人暮らしであった。そして昼と夜で稼いだお金の一部を母親に渡している健気な女だった。幼い頃から父親を知らないので、年上のしっかりした男性に憧れるようなところがあり、そんな次第で私と付き合うことになったのだろうが (彼女があまりにも私の好みのタイプだったので、私が口説き落としたというのもあるのだが) 、それにしても30近くも年齢差が離れていた。包み込むような愛情に飢えている、そういう印象だった。職場が私の職場と近かったため、昼休みの休憩によく会いに来て、一緒にランチをしたものである。それほどにラブラブな関係だったが、ある時ケータイを床に投げつけるほど私がキレてしまい、それが元で結局薬局破局となってしまったのであった。

 その細かな経緯は省くが、母親にDVをふるう父親のトラウマを持つ彼女は、キレてケータイを床に投げつけるという私の行為をどうしても許せず、しばらく付かず離れずだったが、矢張り彼女の側の絶対的な信頼感が決定的に壊れてしまい、最終的に完全に別れるという結果になってしまったのであった。誓って言うが、彼女に直接暴力はふるっていない。女に暴力をふるうなど、生涯一度もない。しかしそれは言い訳にはなるまい。彼女には一緒のことだったのである。私が、キレてケータイを床に投げつけるという行為をすること自体、許せないというより信じられないことだったのである。

 何故あの時、あれ程までにキレてしまったのか?本来、年齢差や彼女の生い立ちなどを考えれば、もっと暖かな大らかな愛情で包み込んであげるべきだったのだろう。何故それが出来なかったのか?

 自分ではよく分かっている。それは、私が人を信じない人間だからである。自分でも嫌になるほど狭量で、真の意味で自分のことしか考えない、器の小さな、愚かしい人問嫌いなのである。昔からずっとそうであった。私の家族でそうでないのはあの優しい母親だけだ。ただ昔と違うのは、それを自覚し、時には反省できるようになってきたことだ。愚かであっても、それなりに亀の甲より年の功か。情けないのは、私の場合、自らの愚かさを知り、ある程度の謙虚さを学ぶのに、人の10倍の学習体験と時間が必要だったようだ。この年になってやっと、自分がいかに愚かな人間であったか、良く「見える」ようになってきたのである。

 昔、Yという面白い教え子がいて、哲学や政治思想などという難しいことだけでなく、女のことも下ネタもキャバクラのことも何でも話せる奴だったが、ある時「先生もこの年になって、ほんとに自分が愚かな人間だとしみじみ思うようになったよ」とYに言うと、彼は、30以上も年上の私に向かって生意気にも、そして「いみじくも」次のように言い放った。

「先生、自分が愚かだと思えるようになったということは、それだけ賢明になったということですよ。」

 その時、そのような「生意気な」ことを30才以上も若い、たいした人生経験もないケツの青い「ガキ」に言われ、私は不思議とまったく腹が立たなかった。彼は人生経験こそ少ないが、失礼なこととそうでないことを最低限わきまえている普通の青年であり、その口調には信じているからこそ言えるきっぱりとした感じがあり、むしろ、それを聞いて爽やかな気分にすらなったものである。そして、その年でそのようなことをさらっと言ってのける彼に、年齢とは関係のない何か老成した賢明さを感じ、大いに敬服したものである。「栴檀は双葉より芳し」と言うが、ある種の才覚や賢明さが生まれつき備わっている羨むべき人がいるのは確かである。それ以外の大多数の、生まれつき愚かな我々は、自らの愚かさを自覚し、その分賢明になる為には、痛い痛い失敗を何度も何度も繰り返さねばならないのかもしれない。

 だが、自らの愚かさを知り、それだけ賢明になるのに、どれほどのものを失ってこなければならなかったのか?例えば美帆のことを想うと、それを否が応でも思い知らされる。

あの時、もし~していなかったら…
あの時、もし~していたら…

 人生は、捨て切れずに積み重なってゆくその「もし」のゴミの山である。これにこそ今流行りの断捨離が必要なのだが、心の中に降り積もった形のないものほど人は捨てられない。過去のそういうものをあっさり捨て去り、次っ!とばかりにあっけらかんと、ひたすら明るく前向きに人生を歩む人もいるが、私はそういう人間をどうしても信用できない。だが、一見そのように見える人も、実はそう見せかけているだけで、内面はムンクの叫びのようなものかもしれない。

 その「もし」を、少しは賢明になった現在の経験値と記憶を持って繰り返せたら…?

 ここで、誰もが願うその想いをそのまま小説にし、1988年度の世界幻想文学大賞を受賞した優れた小説を一つ紹介したい。ケン・グリムウッドという作家の「リプレイ」というSF幻想小説である。

 経済的にあまり成功せず、妻ともうまく行っているとは言い難い、しがないラジオ局ディレクターのジェフは、43歳(1988年)の時、心臓発作による突然死を迎える。だが、奇妙なことに次の瞬間目を覚まし、43歳の記憶を持ったまま、1963年の時点の18歳の若い自分に戻っていることに気付く。そして彼はその未来の「記憶」を存分に活かし、予想賭博などのギャンブルで巨万の富を築き、夢のようなやり直しの人生(リプレイ)を謳歌するが、不思議なことに、最初に死んだ43歳になると何故か再び突然死し、そのすべての記憶を保持したまま、人生のリプレイを強制再開させられる。これを何度も繰り返し、その中で生きる意味を失い、自暴自棄と諦観に囚われるようになるが、同じ立場の女性と巡り合い、ジェフは改めて人生に向かい合うようになる。だが、強制リセットされ過去の自分に戻る度に、戻る年齢が少しずつ43歳に近付き、リプレイする期間が次第に短くなってゆくことに彼は気付き、やがて究極の絶対死(リプレイの終了)が訪れることを知る。

 テーマ自体は「現在の記憶を持ったまま、もし過去の自分に戻れたら?」と、誰もが思い付きそうな安直なものなので、私自身、最初あまり期待せずに読み始めたのだが、プロットや構成が非常に巧みで、ストーリーが進むにつれ、すぐに小説の世界にぐいぐい引き込まれてゆく。だが、いくらストーリーテリングが巧みであっても、それだけでは、リプレイを何回も繰り返すそのストーリー展開は平凡で退屈で、最後まで読み通したとしても、それほど深い印象も感動も残さなかったであろう。そうならなかったのは、やはり、生きる意味を問いかけるケン・グリムウッドの姿勢が非常に真摯で、しかもその問いかけが非常に深いものであり、それがありふれた言葉の随所に表れ、読む者の心に響くからであろう。いずれにせよ、世界幻想文学大賞を受賞していることでもあり、タイムループものの傑作の一つであるのは間違いないが、ジャンルに関わらず小説として素晴らしい小説であり、SFものや幻想文学にあまり馴染みのない方にもぜひ御一読をお薦めしたい。

 実は、私自身もこの小説を或る人から薦められたのである。今から10数年も前のことであろうか?その人は、私が学生の頃の親友と言ってもいい友人の彼女であり、そしてその後、その友人の奥さんとなった人で、私はその友人だけではなく、その彼女とも親交があった。正真正銘、初めてここに告白するのだが、その彼女には出会った頃からずっと憧れていて、淡い恋心とでも言うべきか、ともかくそういう想いをずっと抱き続けてきた。誰にも言ったことがない。恐らく本人もまったく気付いていないであろう。

 彼女とは妙に馬が合ったように思う。それは私の勝手な思い込みかもしれないが、少くとも私の中では、人になかなか説明しにくいことを不思議と妙に分かってくれる存在であった。好みはそれぞれ違ったが、文学や本や芸術のことをあれこれ語り合った。私が結婚してからも、彼女ら夫婦とは家族ぐるみの (と言っても、どちらにも子供はいなかったが) 付き合いをし、4人でいろんな所に旅行に行った。ある時なども、簡易宿泊施設の一部屋に布団を敷いて4人一緒に寝た時があったが、それぞれの配偶者が寝てしまってからも、彼女と私は明かりもつけずに、小説のことや文学のことを遅くまで語り明かしたものである。

 その後、彼女ら夫婦は遠い所に転居し、私も妻と離婚し一人になってしまった。

 その友人と、その妻である彼女とも、メールのやり取りはしばらく続いたのだが、ここから語るのは少し心苦しい。実は、彼女の夫であるその友人と、私は心の中で一方的に親交を絶ってしまったのである。それは何故か?

 それはひとえに、この記事の初めの方で述べた私の狭量さ故のことである。最初はそうではなかったのだが、ある時期以降、私は彼に複雑な感情を抱くようになっていた。一言で言えば嫉妬なのだが、それは彼女を妻にしていることに向けられたものではない。そういう単純な恋愛感情に基くものではなく、もっと内面的にどろどろした嫌らしいものであった。簡単に言えば、彼らの結婚は、私から見れば完全な逆玉だったのである。彼は確かに能力のある人ではあったが、結婚してからの彼の経済的な順風満帆振りはどう贔屓目に見ても彼の実力だとは思えず、その人生を謳歌するような一人よがりの自己満足的な態度が非常に鼻につくようになっていたのである。恐らく彼にはそういうつもりはまったくなかったであろう。彼にしてみれば、謂れなき妬み、僻みの類いであろう。人間として下の下、最底な人間だったのである、私は。

 私にしても、何も世の逆玉の男すべてを妬む訳ではない。そこまで心に余裕のない人間ではないつもりである。何故か彼だけは、その恵まれた境遇と、それを自分の中で良しとしている姿が許せなかったのである。恐らく他の人間または友人ならば何とも思っていなかったであろうと思う。矢張り、その気持ちに彼女の存在が影を落としていたのであろうか?彼は相応の努力をしていない、彼女に相応しくない存在である、と心の中で切り捨て、手前勝手な心理的関係性の中で彼を彼女と切断することにより、心の充足感を得ていたのだとすれば、それこそ最底の人間である。その最底の私が言うのも何であるが、そういう人間は口をきくことすら価値がない。口をきくために息をすることすら勿体無いぐらいである。

 その彼と心の中で親交を絶ったその頃、彼女は自分の仕事の関係で月に一度、私の職場の近くにまで出て来ることがあり、その時必ず私に連絡をくれるようになった。そうして月に一度必らず、昼頃から夜の8時か9時頃まで一緒に展覧会に行ったりお茶をしたり、食事をしたりと行動を共にするようになったのである。その間、手を繋ぐ訳でもなく、腕を組む訳でもなく、ただひたすら友人として他愛もない話をしながら、たっぷり二人っ切りの時間を過ごし、9時頃彼女は予約しているホテルか知人のところに戻って行くのだった。

 そしてある時、私の行き付けのジャズバーの話になり、そこに行くことになった。二人で何杯か飲み、9時過ぎだっただろうか?そこを出て、少し散歩でもしようということになった。どれぐらい歩いただろうか?少し火照った顔に夜の冷気が気持ち良かった。腕は組んでいなかったと思うが、少し酔って気分良く、二人寄り沿うようにして歩いたのを覚えている。私は、今さら言うのも何だが、最底な男である。その時、私は、彼女の唇を奪いたいという強い衝動と闘っていた。いや、闘っていたというのは嘘である。何故なら、何気なく歩く振りをしながら、私の足は、よく知っている人気のない仄暗い公園に向かっていたからである。そこにベンチがあるのを知っていた。とことん狡い男である。幸か不幸か、誰もいなかった。「座る?」と言って、ほんの少しでも彼女が抵抗する素振りをすれば、何もかも諦め、彼女を駅にまで送っていくつもりだった。だが彼女が素直に従えば、頃合いを見計らって肩に手をかけ、その肩を引き寄せ……、そのリハーサルで私の頭はいっぱいだった。

「座る?」と聞くと、彼女は無言で座った。そのすぐ横に私も座った。心臓が早鐘のように打っていた。女性とキスをするのに、そこまで緊張することはもう滅多になくなっていた。どのぐらいそこにそうして、ただ座っていただろう?ほんの二、三分だっただろうか、それとも数十分はそうしていたのか?何を話したのか、そもそも話をしたのかどうかすら覚えていない。

 普段の、最低な私なら、逡巡の欠片も示さず、するべきことをしていただろう。そして少しでも抵抗されれば「ごめん」と謝り、すぐさま彼女を駅まで送っただろう。

 だが、私は何も出来なかった。肩を引き寄せることすらしなかった。しなかったのか、出来なかったのか、それすら賞えていない。どちらにせよ、相当気まずい雰囲気だったのは間違いない。最後の最後で怖じ気付いたのか、最低限の倫理感が働いたのか、彼に対する贖罪のつもりなのか、それとも、そこでそうしてしまうことによって招くかもしれない亊態を短時間で冷静に判断したとでも言うのだろうか?そのすべてが入り混じった理由なのか?だが、そのどれもが日頃の私らしからぬことであった。

 今では、それで良かったのだと思っている。彼とも彼女とも現在はまったく付き合いはないが、恐らくすごく幸せに毎日を暮らしているのだろうと思う。彼女は、私が想いを抱き、すぐ手の届く距離にまで近付き、私が手を出さなかった唯一の女性である。つまり、ある意味、私にとって特別な人なのである。そして特別な人のまま、私の心の中に生き続けるだろう。

「あの時、もし…… 」という想いとともに。

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自堕落礼讃 / 終わりの始まり (2) 


JapaneseGarden
(大山公園内の日本庭園)

 食事などのこともあり、退院してから暫く実家に身を寄せている。食事は普通に食べられるのだが、まだ腸にあまり負担をかけたくないので、担当医や栄養士の話を参考にし、朝晩の食事を母親に作ってもらっている訳である。

 実家と言っても遠方ではなく、自宅から徒歩と電車でほんの1時間弱の距離にある。退院以来、その実家で朝はゆっくり起きて遅い朝食をとり、昼頃から自宅に帰ってあれこれ家の用事を済ませる。それからまた夕方近くに実家に戻り、母親の作ってくれた晩飯を食ベ、夜はそのまま実家の空いた部屋で寝るという毎日を繰り返している。

 なぜ毎日わざわざ自宅に戻っているのかと言うと、適度に歩く距離があり、入院中に衰えきった体力回復のための丁度いい運動になるのと、入院前があまりにも多忙すぎて、部屋の中がゴミ屋敷三歩手前にまでなってしまっていて (さすがに一歩や二歩にまでは及んでいない) 、部屋を綺麗に掃除し、生活を整え直すいい機会だと思ったからである。

 そして、その合い間に、普段入らないカフェに入ってのんびり本を読んでみたり、古書も多数扱っている本屋で、面白そうな、または以前に手離してしまい、今も脳裏を離れない書物をじっくり時間をかけて探してみたり、あるいは日頃寄らない場所に少し足を伸ばしてみたりという、以前の私には想像もつかないほど、ゆったりとした贅沢な日々を送らせて頂いている。

 中でも特に最近気に入っている場所が一つある。実は実家のすぐ近くに、世界最大級の墳墓であり、日本人なら誰もが一度は社会科で学習し、その存在を知っている仁徳天皇陵がある。折しも、外部機関の発掘調査を頑として認めてこなかった宮内庁が、堺市と共同で仁徳天皇陵の発掘を行う予定であると発表したばかりであるが、その仁徳天皇陵は、実際に仁徳天皇の墓であったのかどうか学界でも意見が割れている。日本書紀から推定すると仁徳天皇が亡くなったのが西暦399年。「仁徳天皇陵」の築造は5世紀中頃との説が有力で、50年以上のずれが生じてしまい、年代的に見て実際には允恭(いんぎょう)天皇、もしくは安康天皇の墓ではないかと指摘する声がある。しかも、そもそも仁徳天皇は実在しなかったという説もあるのである。そのため以前は、学校の教科書も含めて一般に「仁徳天皇陵」という呼称で統一されていたのが、最近では「大山 (だいせん) 古墳」とするケースも多いと言う。

Nintoku
(今更ながらの仁徳天皇陵。やっぱりデカい!)

 最近のお気に入りの場所とは、もちろんその仁徳天皇陵ではない。そもそも中に入れない。大きい大きいと言っても、その大きさは上空からの航空写真でしか分からない。それを我が目で確かめた者など殆どいないであろう。周囲を実際に歩いてみれば、その巨大さを実感できるかもしれないが、鬱蒼と生い茂った樹木をただ延々と眺めるだけである。楽しいものではない。

 私のお気に入りの場所とは、御陵通りという通りを挟んでその仁徳天皇陵の向い側に広がる大山 (だいせん) 公園という広大な公園と、その敷地内にある日本庭園である。堺市の広域避難場所にも指定されている大山公園は、春になると桜が咲き乱れる名所の一つでもあり、日曜ともなると大勢の人で賑わうが、平日はどこもそうだが人出もまばらで、その自然溢れる公園と風情ある日本庭園をゆったりのんびり散策し、そして最後に、通りを挟んで向いの仁徳天皇陵側にあるカフェに寄り、そこでゆっくり珈琲を頂きながら、古本屋で漁ってきた本などを時間を気にせず読む、と言うのが私の最近の何よりの楽しみなのである。このままこの生活が永遠に続けば良いのにと思うほどである。

JapaneseTeaGarden
(日本庭園内の茶屋。お抹茶と茶菓子を出してくれる。ぽつんと小さく見える人物はお袋。先日、一緒に散歩した時の画像)

Cafeinside
(カフェの店内。広々として、平日は客も少く、のんびりまったりとした時間を過ごせる)

 そう言えば、長い入院生活も、激しい痛みの日々や点滴だけの日々は確かに辛かったが、別の記事にも書いた様に、食事が始まってからはその悠々自適とも言える生活にすっかり馴染み、毎日がけっこう楽しくさえあり、一刻も早く退院して社会復帰したいという欲求はそれほど強くなかったように思える。私には、だらだら出来るなら際限なくだらだらしてしまうところがある。根が相当に自堕落なんだろうと思う。私を知る人は信じないかもしれないが (私のことを精力的で活動的だと思っている人が多いようなので) 、心地良ければ、家のソファで半日何をするわけでもなくだらだら過ごすことも出来るし、しなければならない大切なことも、分かっていながらいつまでもだらだら先延ばしにすることも出来るのだ。そう、だらだら「出来る」のである。これは特技である。奇妙な言い方に聞こえるかもしれないが、生真面目で几帳面な人には自堕落な生活をして、やるべき事をだらだら先延ばしにするなどということは、そもそもどれほどやりたくても出来ない、ある種憧れの特殊「能力」らしいからである。だが、そう言われて嬉しい人はいないだろう。「そうか、これは技能であり能力であり才能なんだ。よし、この能力にもっと磨きをかけてやろう」なんて思うことの「出来る」やつが本当にいるとしたら、それは余程お目出度い、特別天然記念物なみの幸福な阿呆であり、それこそ、その幸せな特殊技能に憧れを抱いても良いぐらいである。

 話は脱線したが、いや元より本線などないが、その本線を無理矢理作ると、私はだらだらした自堕落な生活の好きな、いい加減この上ない野郎なのだが (その実力振りを知る者はほとんどいない。唯一いるとすれば20年前に別れた元妻であろう) 、そうすると、あの、狂ったように、憑かれたように、毎日夜明け近くまで飲み、水商売の女と遊びながら (私は自分で言うのも何であるが、キャバクラなんかの若い女を口説いてしばらく彼女にしてしまう天才なのである。ほら、やっぱり、いい加減この上ない野郎ですね、私は) 、しかも、その翌朝早くから夜遅くまで働いていた私は一体何だったのか?確かに「毎日夜明け近くまで飲み、水商売の女と遊び」の部分は「自堕落な」という形容も当てはまるだろうが、それを一週間ほとんど毎日繰り返し、その上ほとんど休みも取らず朝から晩まで長時間働いていたのである。褒められたものではないにしろ、これは到底「自堕落な生活」とは呼べない気がする。むしろその対極に位置するのではないだろうか。人からは「超人的なまでにタフですね」とか「その精力、敬服に価します」などとよく言われたものである (実際に敬服されていたかどうかは別問題だが) 。現在私をよく知る人のほとんどが知っているのは、この「超人的な」私なのではないかと思う。確かにそれも私がよく知る馴染みのある私自身である。昔から私には自堕落な反面、何か得体の知れない焦燥感と絶望的な情熱、というよりも衝動に駆られ、破滅に向かって突き進んで「しまいたくなる」側面がある。とは言うものの、破滅のぎりぎり一歩手前でちゃっかり踏みとどまったりするのだが、若い頃は本当にぎりぎりまで行ってしまうのである。最近はそこまで行くことも滅多になくなり、二歩か三歩手前でとどまるようになったが、それは賢明になったからではなく、単に体力が許さなくなったからである。以前のブログにも書いたことだが、私の辞書には「賢明」はないのである。しかし、年齢とともに体力が衰え、それを許さなくなったとは言え、矢張り、破滅の一歩手前まで突き進んでしまう私の「愚か振り」は健在だったと見える。なにしろ10cmもの癌を体内に密かに育てていたのだから。

 振り返ってみると、だらだら自堕落な本性と、何か得体の知れない焦燥感、この二つが調和も融和もせず、さりとて対立も敵対も葛藤もせず、私の中に常に存在し続け、それがこれまでの私の人生のすべてを彩り、その形と道筋を決定してきたように思える。しかもこの二面性には「中庸」というものがなく、それ故、常にどちらかに大きく振れながら進むことになる。繰り返すが、私の辞書には「賢明」はないのである。「中庸」とは単に真ん中という意味ではない。徳を表す儒教の中心的概念であり、簡単に言えば、一切の偏りも過不足もなく、常に変わらず調和が取れている様を表す。言い換えれば、人として生きる最高の賢明さを表す言葉であり、そんなもの私が持ち合わせている訳などないのである。いきおい生活や人生から軸となる安定感や充足感というものが失われ、常に虚ろな空洞を内に抱えているように感じられ、「意味」という宗教に冒されている私は、胡散臭いご都合主義的な何らかの意味で無理矢理その穴を充たそうとする。それが私を、即自的な私の人生そのものから引き剥がすのである。私が文学やら哲学やら数多の芸術作品に惹かれるのも、そして強く惹かれながらも自らそこに飛び込まず、いや飛び込めず、冷ややな傍観者に留まっているのも、それが自分にとって、この「無意味」という空洞を充たすだけの自己欺瞞だと、どこかでずっと気付いていたからかもしれない。

 例えば、素晴らしい小説を読んでいる時、私の心を覆っているのは「感動」ではない。やがてこの世界が終ってしまうという漠とした「寂寥感」である。素晴らしいと思える小説ほど、その最終頁に近付くにつれ、寂しくて寂しくてどうしようもない気持ちに襲われる。読み終わった時、もちろん何がしかの感動らしきものは心の中に残るのだが、それよりも、あ~読み終わってしまった、この豊かな素晴らしい世界が終わってしまったという、何とも言えない寂寥感の方が大きい。いつまでもその小説の中にいたいのである。文学的天才が織り成した、その目眩く豊穣な精神世界にいつまでも、この乾いた空っぽの貧弱な精神を浸していたいのである。そう思うこと自体が、私が自分の人生とぴったり寄り添えていない、つまり自分の人生を生き切っていない何よりの証拠であろうと思う。

 ついでながら言うと、哲学や文学、芸術というものを、自らの精神を豊かなものにしてくれる道具や手段のように語るお目出たい阿呆が時々いるが、それは大きな間違いである。哲学や文学、芸術というものは、愚か者にとって、その貧相な精神が素晴らしく豊かなものになったような幻想に浸らせてくれる麻薬なのである。生来素晴らしい豊かな精神の持ち主は、そんなものなど必要としない。哲学、文学、芸術、学問、事業、発明、冒険、何であれ、創造的なものを自らが産み出すのである。貧相な精神しか特ち合わせていない我々愚か者にとって、哲学者や文学者や芸術家というものは、我々の貧しい精紳を何らかの夢や幻想や大きな錯覚、お目出たい勘違いなどで充たしてくれる、謂わば、なくてはならない麻薬の売人なのである。

 さて、纏まりもなく、取り憑かれたように執拗にだらだらと書いてきたこの記事、どこに着地するのか、元より着地点を求めて書いている訳ではないが、これからの私の人生の道筋、その形と色合いをある程度決定する力となるものがあるとすれば、矢張り今回のこの「癌体験」であろうと思う。と書いて、私のことであるから、そう持ってくるのが、記事の締めとして一番落ち着きが良さそうだからそう書いているだけだったりするのだが、ほんの少しだけ実際にそう思うところもない訳ではない。今回のこの「ガーン!体験」、それが今後、私の生き方に何か変化をもたらしてくれるのかどうか、もたらしてくれるのであれば、それは一体どのような変化なのか、それとも結局薬局何も変わらないのか、人ごとのようであるが、実は少し楽しみにもしているのである。

 なお、余談であるが、記事中で触れた書店の古本コーナーで、学生の頃に読んでいた当時のサルトルの「嘔吐」を見つけた。この「嘔吐」という小説は、サルトルの頂点とも言うべき難解な哲学的著作「存在と無」の文学的表現とも言える小説で、当時の私がどの程度理解出来たのか、まったく自信はない。だが、当時の私が絶えず抱いていた疑問、存在の意味と無意味、人間存在の意味と無意味という哲学の大問題に (そんなこと、どうでもいい人にとっては、破れたゴミ袋ほどの価値もないであろうが) 、哲学者もどきの多い中、正真正銘本物と呼べる哲学者がその英知の限りを尽くし、全身全霊をかけて取り組んだ「本物」であるということは、青臭いとすら言える若い私にも、ひしひしと伝わってきて、それこそ一言一句その意味を自らに問い返しながら真剣に読んだ記憶がある。当時は本を真剣に読んだものである。それほどの真剣さで書物を読むということが、今ではもうすっかり無くなってしまった。友人などと書物の話になると「昨今は読む価値のある本が本当に少くなった。何を読んでも中身がすかすかのカスカスで、昔のように魂が震えるような体験をすることがなくなってしまった」と、ついついその責任を昨今の作家と書物のせいにしてしまうのだが、何のことはない、こちらの精神が劣化し、真剣に読もうとする集中力と気力、そして若い頃の感受性が衰えてしまっただけのことである。これだけは真剣に反省すべきだと、現在改めて思っているところである。

 学生の頃からバイトの収入の大半を費やして夥しい書物を買っていたが、ある時まとまった金が必要となり、そのすべてを売っ払ってしまった。人文書院のサルトル全集、大修館のヴィトゲンシュタイン全集、新潮社の倉橋由美子全作品、後の決定版の方ではない古い新潮社のカフカ全集、人文書院のロートレアモン全集、桃源社の澁澤龍彦訳マルキ・ド・サド選集、みすず書房の糞高いフッサールやメルロー・ポンティの数々の哲学書、当時一世を風靡しつつあったジャック・デリダやジル・ドゥルーズの哲学書、大好きだった高橋和巳や安部公房などの数々の単行本、等々、等々、等々、いくら金が無かったからとは云え、今にして思うとあまりにも惜しいことをしたと思う。

 あなたは倉橋由美子を知っているだろうか?高橋和巳を知っているだろうか?一時代の精神を確実に体現していたと言える彼らの作品を?漱石や太宰のことを語る輩は五万といる (私も両者とも好きな作家ではあるが) 。しかも若い人向けに、コミック本か?とも思える表紙だったりして、出版社の苦労と意図は理解できるが、矢張り失笑せざるを得ない。三島由紀夫や大江健三郎も然りである。開高健、中上健次もネームバリューはまだまだ健在だ。そして昨今は矢鱈とハルキストばかりが多くてうんざりする。だが、倉橋由美子、高橋和巳、安部公房を語る人が本当に少くなってしまった。椎名麟三など、今はもう語るどころか誰も読みもしないだろう。だったら、そうぼやく前に、お前が語れ!ですよね。ごもっとも。仰る通り。その為にも、のんびり本を読む自堕落な生活をもっともっと続ける必要がありそうである。
 
 

明日退院 (経過報告) / 癌闘病記 (8) 

shokado
(私の退院を祝うかのような松花堂弁当。昼食には鯛も出たし、こりゃ目出度い)

●10月08日

 夕方5時頃、担当医がふらっとやってきて「ドレン抜きましょか?」と言って、その用意をしてきたと見え、突然病室のベッドの上で抜いてしまった。そして「明日以降いつでも退院出来ますよ。日程をまた病院事務と相談して決めて下さい」と。えっ?明日? 確かに週明けとは聞いていたが、何も言いに来ないので、もう暫く様子見かなぁ、と思っていた矢先である。この人は言うことやることすべていつもサプライズである。おかげでいつも私は「えっ?あ、はい!」という反応しか出来ないが、喜びは倍増である。計算してる風でもない。こういう人なんだろうと思う。医者として少し舌足らずのようにも思えるが、こういう人は嫌いではない。

 という訳で、何事もなければ明日、9月12日に入院して28日振りの退院である。長かったようだが、あっと言う間だった。62年生きてきて人生初の大病、手術、入院。いろいろ学ぶことは多かったが、とりわけ痛感したのは矢張り人の有り難みである。この闘病記にはあまり触れなかったが、実は多くの人に心配して見舞いに来て頂いたり、励ましのメールを頂いた。今も、みんなに退院のお知らせをしたら、良かったですね!とメールが山のように返ってくる。私のようなこんないい加減な適当野郎に、本当に有り難いことである。勿体無いぐらいである。個別にもお礼はしているが、この場を借りて改めて声を大にして言いたい。みんな、本当にありがとう!!!

 冒頭の画像にあるように、夕食に松花堂弁当風食事が出た。今夜は豪勢だねと配膳の看護師に言うと、祝日はいつもこうだとのこと。そう言えば9月17日の敬老の日もそうだった。小用を足しに廊下に出ると、大きな配膳カートにいつもとは違って松花堂弁当が並んでいたので、看護師に聞くと「今日は敬老の日で、特別なんです」と言っていた。私のいる病棟は外科病棟なのだが、実質的にガンの外科手術病棟で、患者のほとんどは70以上の爺ぃ婆ぁばかりなので、なるほど敬老なんだなと思っていたが、単に祝日だったからなのである。あいにく私は点滴絶食中だったので、その時は食べられなかったが、てっきり敬老を祝ってのものだと思っていたので、絶食中でなければ私にも出たのかどうかと考えたものである。とても美味しそうであったが、出たら出たで少し複雑な思いをしたであろう。

・朝食…胚芽ロールパン60g、イチゴジャム、コーンとグリーンピースとキャベツと人参とハムのスープ煮、牛乳。
・昼食…全粥200g、鯛塩焼き大根おろし付き、豚じゃが (人参と)、胡瓜と白菜のゆかり和え。
・夕食…松花堂弁当、全粥200g、鮭照焼き大根おろし付き、里芋と高野豆腐とはんペんの炊き合わせ、出し巻き卵、人参はと春菊のお浸し、胡瓜もみ、松茸麩のお吸い物、抹茶ゼリー。

●10月07日
・朝食…ブリオッシュパン50g、オレンジマーマレード、カリフラワーとブロッコリーとハムの温野菜サラダ、牛乳。
・昼食…全粥200g、白身魚の塩焼き、人参と里芋の煮物、カルピスゼリー。
・夕食…全粥200g、煮豚、豆腐と人参餡かけ風、南瓜と胡瓜とハムのサラダ、白菜の漬物。

●10月06日
・朝食…ロールパン (60g)、リンゴジャム、牛乳、リンゴゼリー。
・昼食…全粥200g、木綿豆腐とすずきの味噌煮、人参と茄子の煮付け、かき卵スープ。
・夕食…全粥200g、牛スライス治部煮 (とメニュー表に書いてあった。何だか良く分からない)、人参とはんぺんと小松菜の煮浸し、白菜の漬物、プリン。

快楽さえなければ、人生はきっと耐えうるものだろう / 癌闘病記 (7) 

view
(病室の窓からの眺め)

 病院内にドトールが入っていて、息抜きと読書、またはこのブログを書くのにこれまで二度ほど入ったことがある。その時はどちらもリンゴジュースを飲んだのだが、帰りに「当店限定、カフェインレスコーヒー」とカウンターのメニューにあるのに気付いた。
 何日か前に看護師に「ドトール行ってもいいかな?」と尋ねたところ
「うーん、軽いジュースぐらいなら」
「コーヒーは?」
「刺激物だからねぇ。まだやめときましょう」と言われていた。
 そして今朝、ドクターの回診時に
「ドトールのメニューにカフェインレスコーヒーがあったんですけど、カフェインレスならいいですよね?」と探りを入れてみたところ、
「カフェインレスじゃなくてもいいですよ」とあっさり返ってきた。
「えっ?! いいんですか?」
「近々退院だし、コーヒー飲むでしょ?一杯ぐらいならカフェインレスじゃなくても全く問題ないですよ」「えっ?退院?」「ええ、来週、週明けの月曜か火曜には考えています。」

 なぁ~んだ、そうだったんだぁー!コーヒーも退院も。なら早く言ってくれよ、早く!
という訳で早速、カフェイン“有り”コーヒーを飲んだ。入院中どころか、体調のせいで8月末頃から胃がコーヒーを受け付けなくなっていたので、実に40日振り近くになる。ゆっくりカップを口に近付け、少し啜って熱さを確かめ、それからワインのように口に含み、口の中でまったり苦い黒い液体をゆっくり転がす。あ~、コーヒーの苦さってこんなだったんだ。ブラックで飲んでいるが、気のせいか、ごく僅かほんのり甘みも感じる。コーヒーに関する、ある有名な言葉を思い出す。ご存知の方も多いであろう。

「珈琲、それは悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして愛のように甘い」 by Talleyrand (タレーラン)

シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord) 。1754年2月13日 (2月2日説もある) 生まれ、1838年5月17日没。フランス革命から、第一帝政、復古王政、七月王政に及ぶまで、政治家、外交官として務める。ウィーン会議ではブルボン家代表となり、以後も首相、外相、大使として活躍し、長期にわたってフランス政治に君臨する。日本では一般に「タレーラン」と略される。(Wikipedia)

このタレーランという人物が非常に興味深く面白い。その為人とエピソードをWikipedia から少し拾ってみると…

・有名な画家ドラクロクは、その容貌容姿の酷似やフランス政府の保護などから、タレーランの息子ではないかと言われている。
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(ドラクロアと言えばこれ「民衆を導く自由の女神」。1830年に起きたフランス七月革命に応えて描かれた)
・「タレーランは、金儲けに精を出していない時は、陰謀を企んでいる」と酷評されたが、一方で敗戦国が戦勝国に要求を呑ませたことで、敏腕政治家・外交家としても評価が高い。
・ナポレオンとタレーランは、互いの天才的な才能を認めあったが、必ずしも親しい関係ではなかった。タレーランの老獪な政治手法をナポレオンは「絹の靴下の中の糞」とこき下ろすこともあった。
・タレーランは、変節の政治家として嫌われることも多いが、名外交官としてオーストリアのメッテルニヒと並び外交の天才と称され、今も評価が高い。
・タレーランは、長年対立関係にあったイギリスとフランスの同盟関係を固め、19世紀と20世紀の200年続く両国の協調と同盟の基礎を築いた。両国の同盟関係により後の第一次世界大戦と第二次世界大戦のフランスを勝利に導いたのはタレーランの外交の遺産であった。
・タレーランが提案したメートル法が世界の多くの国で度量衡の基準として広く用いられている。
・現在でも、欧米では交渉の場で卓越したものの代名詞として使われる。
・美食家として知られ、後にフランス料理の発展に大きく貢献し「国王のシェフかつシェフの帝王」と称されたアントナン・カレームをシェフとして雇い、ヴァランセ城に居住させ、重複のない、季節の食材のみを使用した1年間のメニューを作ることを命じた。ウィーン会議の間もたびたび夕食会を主催し、そこで出された料理は出席者の評判をさらい、カレームの名をヨーロッパ中に広げるきっかけとなった。
・あるとき、タレーランは2匹の大きなヒラメを入手した。これは、当時としては大富豪でもなければ不可能なことだった。さっそく客たちにふるまうことにしたが、しかし2匹同時に食卓に出せば自慢と受け取られ、反発されることも予想される。そこでタレーランはあらかじめ使用人に指示して、1匹目のヒラメ料理を客たちの目前でわざと皿から落とさせて台無しにしてしまった。楽しみにしていたヒラメ料理を食べ損ねて客たちが落胆した所に、タレーランはすかさず2匹目のヒラメ料理を持って来させたため、客たちは大いに歓喜したと言われる。

また、彼は、ピリッと毒のきいた、次のような味わい深い言葉も残している。

「快楽さえなければ、人生はきっと耐えうるものだろう。」
「誹謗中傷よりも酷いことがひとつある。それは真実だ。」
「言葉が人間に与えられたのは、考えていることを隠すためである。」

特に一つ目の金言。「人生はきっと耐えられないものになるだろう」ではないのである。「耐えうる」なのだ。深い。言い得て妙である。私の人生そのものではないか。

点滴のこと (経過報告) / 癌闘病記 (6) 

hathanger (じゃなくて!)

 3日に点滴が外れて以来、非常に快適である。何しろ、館内を移動するにもトイレをするにも何をするにも常に、何と呼ぶのか、下にキャスターの4つか5つ付いた、あの点滴のビニール袋を吊るす背の高い帽子掛けのスタンドのようなあれ、後で看護師さんに尋ねたら支柱棒と呼んでるらしいのだが、その支柱棒をガラガラと連れ歩かねばならなかったのである。鬱陶しいったらありゃしない。しかしよく考えてみればそう無下にもできない。むしろ感謝しなければならないだろう。入院してからほぼ三週間、水分以外何も口に出来ない私をずっと支えてきたのだ。思えば不思議な液体である。奇跡の液体と呼んでもいいだろう。

 点滴には、腕や脚などの皮下を走る静脈に留置する末梢静脈路と、中心静脈路と呼ばれ、大腿静脈、内頚静脈、鎖骨下静脈などから挿入し、上大静脈または下大静脈の中心静脈に留置されるものと二種類ある。末梢静脈路は手軽に確保できるため頻繁に使用されるが、浸透圧の高い輸液を行うと血管炎を起こしてしまうため、高カロリー輸液には適さず、長期間使用すればどんどん痩せていってしまう。それに対して、上大静脈または下大静脈に留置するルートは、大静脈が体内で最も太く血液量が多い静脈であり、高濃度の薬剤を投与することが可能であり、また血管外への逸脱を起こしにくく確実性の高い投与経路であるため、長期にわたる絶食が必要な場合や、消耗性の病気でカロリーが必要な場合に用いられたり、一部の抗がん剤など血管炎をきたしやすい薬剤の投与に用いられる。またカテーテルを通して中心静脈の血圧(中心静脈圧)を測定することが可能であり、体液量の増減や鬱血性心不全の程度を把握するのにも役立つ。

 私の場合は前腕への点滴であったので勿論、末梢静脈路であり、ソルデム3A (500ml) というのを一日4パック、23日間ずっと体に流し込んでいた。ソルデム3A (500ml) は熱量が86kcalしかなく、計算上一日344kcalにしかならない (その他病院支給の栄養補助ドリンクは飲んでいたが)。当然のことながらどんどん痩せる。私は、去年の最盛期には65kgはあったように思う。今年の夏になって体調がどんどん悪くなっていった頃でも53~4kg、極度の貧血と疲労感と痛みで苦しんでいた入院直前でも52kgはあったように思う。それが今や、驚くなかれ、48kgしかないのである。ところが不思議なことに、ここ半年で今が最も体調が良いのである。勿論、ここしばらく私を苦しめてきたあの忌まわしい巨大な腫瘍がなくなったから当然であるが、それにしてもまさに点滴さまさまである。

 思えば若い頃、私は痩身だった。20代の前半には今と同じ48kgしかないこともあった。30代に入っても52kg前後だったような記憶がある。当時、別れた元妻のジーンズが楽々履けて「私のデニムが入っちゃうなんてほんとに失礼な人ね」とよく彼女に言われたものである。その当時のズボンなどはさすがに残っていないが、ここ10年ほど、どんどん腰回りがキツくなって入らなくなってきたパンツ類が多くあり、処分しようかどうしようか悩んでいたところだが、ひょっとしてすべて難なく入るのではなかろうか?もしそうだとしたら、これはしめた事だ。怪我の功名ならぬ、癌の功名と言ったところか。

●10月05日
・朝食…イチゴジャム付きロールパン60g、キャベツと人参とベーコンのスープ煮、牛乳200cc。
・昼食…全粥200g、鮭の蒸焼き、じゃがいも二切れ、大根と人参と鶏肉の味噌煮、キャベツのマヨネーズ和え。
・全粥200g、空也蒸し(これは旨かった)、蒸し鶏、茄子と人参の和えもの、ハクサイの浅漬け。

●10月04日
・朝食…ロールパン (60g) オレンジマーマレード付き、牛乳 (200cc)、リンゴゼリー。
・昼食…全粥200g、タイ味噌少量、鶏の照り蒸焼き90g、茄子と胡瓜と人参のお浸し、サイダーゼリー。
・夕食…全粥200g、白身魚の煮物、大根と人参と錦糸卵のゴマ和え、豆腐のお味噌汁。

経過報告 / 癌闘病記 (5) 

●10月03曰 昨日の夕食に引き続き、朝昼夕とも乳製品なしの普通の入院食。昼過ぎから、それまで綺麗だったドレン管に微量の白濁したものが混じっている。矢張り脂肪制限していないので乳糜が少し洩れ出しているのか?ただ、夜に入ってもそれはドレン管の同じ位置にとどまっていて、増えている気配はまったくない。ということは浸出液自体もほとんど止まったということか?問題は、ヨーグルトその他の乳製品も再開される明日だ。この乳糜瘻の件以外は回復は至って順調なのだが。今朝、食事をしっかり取れているということで点滴も外れた。

・朝食…リンゴジャム付きロールパン1個、人参と大根とインゲン豆の温野菜サラダ、リンゴジュース。
・昼食…全粥200g、肉じゃが (これは牛肉もしっかりあり、旨かった!)、けんちん厚焼き卵、にんじんとキャベツのゴママヨネーズあえサラダ。
・夕食…全粥200g、肉焼売5個、小松菜と人参とはんぺんの煮浸し、豆腐ゼリー。

●10月02日 朝昼の食事は低脂肪食だったが、夕食から特に脂肪を制限していない普通の入院食に切り替わる。ただし乳製品はつかない。夕食後3時間ほど経過しているが乳糜は出ていない。

・朝食…全粥300g、青梗菜とはんぺんの煮浸し、梅干練り物少量、佃煮錬り物少量、桃ゼリー、オレンジジュース。
・昼食…かやくうどん (人参一切れ、鶏肉二切れ)、自身魚の黄身焼 35g、ブロッコリー二切れ、黒蜜ゼリー、栄養補助ドリンク。
・全粥200g、焼鮭、人参とキャベツの味噌焼、煮奴、大根と胡瓜のサラダ。

人生は一度切りの夢、幻 / 癌闘病記 (4) 

Brazil
(テリー・ギリアム監督「未来世紀ブラジル」最後の場面)

 大腸に10cm大のかなり大きな腫瘍が見つかってちょうど一ヶ月。12日に入院。18日に手術。そしてまだ現在入院生活を続けているわけだが、その間の経緯は癌闘病記に書いている通りである。その際私は、あまりセンチメンタルになったり、癌だ癌だ!と大袈裟に騒ぎたてたりせずに、事実に則して出来るだけ淡々と記録するか、あるいは「我食べたい、故に我あり」のように少しおちゃらけたり軽い乗りの考察を加えるにとどめ、あまり深刻にならないようにしている。特に「生きているって、それだけで素晴らしい!」的なお目出たいNHK的生命礼賛は控えたいと思っている。世の中にはもっともっと苦しい想いをしている人が五万といるわけであり、これしきのことであまりみっともない真似は晒したくないからである。ただし私にも人並みの不安がない訳ではない。

 10cmの腫瘍である。後に、実際に摘出したK大の執刀医は、ソフトボールぐらいありましたよと、片手でソフトボールを握っている仕草をした。実際に見せられた母親は「こんなぐらい」と言って小さな手の平をいっぱいに広げて見せた。最初のCT検査でその事実を告げられたU病院では、これだけ大きいと悪性であるのはまず間違いないと言われ、少くともステージIやⅡでは絶対にないと断言した。その時まだ愚かにも事態を甘く見、手術入院となった場合の仕事先にかかる迷惑だけを危惧していた私が「やっぱり切らないと駄目ですか?通院治療なんて無理ですよね?」と尋ねると、医師は「一体こいつ何考えてんだ?!」と言わんばかりの侮蔑的とも言える訝しげな表情を向けながら (U病院じゃなくて良かった)「手術出来るかどうかすらまだ分かりません」と言った。つまりステージⅣまたは末期癌の可能性も有りということである。その時初めて事態が相当深刻であることを悟った私は、文字通り目の前がすうっと暗くなるのを感じた。あ~これで人生終ったかも、と。

 結果的にK大病院で手術を無事に終え、現在に至るわけであるが、癌のステージはまだはっきりと告げられていない。私の場合、闘病記(1)で述べたように、大腸内視鏡カメラが痛みのため患部にまで達せず、その時病巣を少し切り取って病理学検査に回すことが出来なかったため、その様子を兼ねての、取り敢えずの開腹手術であり、摘出した10cm大の腫瘍の病理学検査はその後に回された。血液検査、CT造影剤なし、CT造影剤あり、レントゲン、エコーと体の隅々まで検査し、加えて腹を開いた際、患部とその週辺部を見ているわけだが、今のところどうやら、肺、肝臓、膵臓、腎臓などへの目立った転移はなさそうだと言われ、ひとまずほっとしている。だが、まだ明確な言葉による説明はなく、先の腫瘍の病理学検査の結果も含め、ステージの宣告とプログノーシス、いわゆる予後の説明は退院時か、その後の最初の外来診察の時であろうと思われる。

 一般に大腸癌のステージは0期からⅣ期までの5段階に分類され、その判定は ①癌が大腸の壁の中にどの程度深く入り込んでいるか (深達度)、②周辺組織への広がりの程度 (浸潤度)、③リンパ節や肝臓・肺などの遠隔臓器への転移があるかどうかの三要素によって決められる。もう少し詳しく書くと (日本人二人に一人は癌になる。今後のあなたの参考のためにも) ・・・

ステージ0:癌が粘膜の中にとどまっている
ステージⅠ: 癌が大腸の壁 (固有筋層) にとどまっている
ステージⅡ: 癌が大腸の壁 (固有筋層) の外にまで浸潤している
ステージⅢa:3ヶ所までのリンパ節転移がある
ステージⅢb:リンパ節転移が4ヶ所以上に及ぶ
ステージⅣ:遠隔転移 (肝転移、肺転移) または腹膜播種がある

 私の場合、ステージⅠかⅡはまずないので、問題はⅢかⅣのどちらなのかということである。というのもステージⅢとⅣとでは、その5年相対生存率に大きな差があるからである。大腸の部位にもよるがステージⅢでは、5年生存率は75%~85%であるのに対し、ステージⅣでは15%~20%にすぎないのだ。もちろんそれはあくまでも確率の問題であり、特定の個人に限って考えた場合どうなるかはまったく未知数であり、ステージⅣや末期癌宣告された人の中にも、その後何年も生き延びたり、または完全に克服したと言える状態にまで復帰した人も多くいる。とは言うものも、それはあくまでも確率的に見て稀な事例であり、私がそうなる可能性は矢張り小さいのだ。ま、私の不安も分かって頂けるだろうと思う。

 と、ここまで書いてきて、実はそれほど不安に感じていないことに今、気付いた。不安?えっ?それほど不安じゃないんすけど、俺、って感じ。不安に思える要素を上に書き出してみて、客観的になり冷静になったからであろうか?どうもそうでもないような気がする。そもそも第一段落の最後に「私にも人並みの不安がない訳ではない」と書いた時の気分を今振り返ってみたのだが、そんなに不安を感じていたわけでもなさそうなのだ。そう書いた方が文全体がうまく纏まりそうだから書いたまでで、またしても筆の軽いノリに乗せて書いちゃったような気もする。そう、大切なのはその場のノリ、ノリ。それにしても何といい加減な奴なんだ、アンタって男は。てへへ。

 そもそもこのカテゴリーのタイトルにしても「癌闘病記」にした方がそれなりに格好がつくからそうしたまでで、当の本人は闘っている気持ちなどさらさらない。今さら何と闘うの?という感じ。こんなもの、成るべくしてなったのだから、今後も成るようにしかならんだろうし、今さら足掻いたところでどうなるものでもない。だからと言ってもちろん、どうなってもいい訳ではなく、一刻も早く回復したい気持ちは非常に強い。だが、それは先のこと。不透明な先のことで、この今を台無しにしたくないという気持ちの方が強い。手術台の上に寝かされ、これからまさに麻酔をかけられようとしている時「私はこれから死ぬんだ」と自分に言い聞かせた。もしこのまま目覚めなくても、それは自分にも分からないこと。そして、もし目覚めたら、それは儲けもんの命。だから、これから自分は死ぬんだと強く言い聞かせた。そして次の瞬間目覚めた。何と有難いことか!本当に、誰か奇特な人から命を貰ったような気がした。これは続対に無駄にしてはいけない、大切に大切にしなくちゃいけない、と。これからは一瞬一瞬を大切に生きよう、生きている今をしっかり自覚し十分に味わい尽くしながら生きようと。

 おっといけない!私は今、第一段落で自らに禁じた「おセンチ」で大袈裟でNHK的お目出たい野郎になってません?うーん、困ったことだ・・。

 実は、こんなに毎日をのんびり過ごし、何もしなくていい「今」を楽しんだのは本当に久し振りのことなのだ。退院してその後再発はしないのか、とか、またいったん回復しても再発予防のための通院やらでちゃんと職場復帰できるのか、などと若干の不安はあるものの、その不安に、現在のこの伸び伸びと寛いだ気持ちの邪魔をさせたくないのだ。それほどまでに、この今を楽しんじゃってる自分がいる。しかも、大病も入院も大きな手術も私は生まれて初めてのことであり、そのどれもが自分にとって物凄く新鮮であり、妙なことに、それを体験することによってやっと一人前の人間になったような気すらするのである。点滴やらドレン管やらいろんな管を体に繋げてはいるが、また様々な行動の制約はあるものの、毎日毎日好きな時間に寝て、好きな本を読んで、好きな音楽を聴いて (Appleのミュージックというのに月780円で契約していると、どんな音楽でも聴き放題、本もAmazonで洋書でも何でも好きな時にダウンロード出来るし、何と便利な時代なのだ、この時代は!)、食事は質素だが物凄く美味しく感じるし、何よりも、可愛い看護師が身の回りの世話はおろか、体を後ろからぴたっとくっつけて洗髪までしてくれる。このK大病院には何故か若い可愛い看護師が多い。入院してから、もうかれこれ20日にもなる。当然のことながら、みんなともけっこう親しくなり、私が予備校の講師であることを知っている者も多く、私はけっこう人気者なのである。何も言うことはないではないか。

 と、ここまで書いてきて、またしても大きな疑念が生じる。
「ん?ちょっと待てよ。これってひょっとして覚醒前のマトリックス状態じゃん?!」

 ひょっとしてあの時、私は手術台の上に横になって麻酔により無意識になり、その後、手術が失敗するか何かして、そのまま植物人間にでもなってしまっているのでは?そして、目覚めたと思ったのは実は単なる夢で、覚醒前のマトリックスのように、はたまたテリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」やジュード・ロウ主演、ミゲル・サポチニク監督の「レポゼッション・メン」(これは知る人は少ないが非常にいい映画である。隠れた佳作と言っていい。是非一度ご覧あれ) の最後のように、この現在の充実した入院生活はすべて夢、幻なのではないか?もしそうだとすると、それは非常に怖いことだが、それをどう否定出来よう?しかも、もっと怖いのは、それならそれでいいではないかと思ってしまうこの自分である。人生とは一度切りの夢、幻。

経過報告 / 癌闘病記 (3) 

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松風焼 (画像は実際の食事の写真ではありません。ネットから一番近い感じのものを取りました。あしからず)

●10月1日 朝から待ちに待った食事が開始される。知らされていなかったので、ちょっとしたサプライズで喜びも倍増である。まさかそれを狙っての突然ではないだろうが。後で聞くと、朝早く6時頃採血した結果と週末の経過、ドレン廃液の様子を見ての朝早くのドクターの判断だったらしい。とは言っても徹底的な低脂肪食なので、また乳糜が出る可能性はきわめて薄いのだが・・。過去2回とも廃液が真っ白になったのは、ヨーグルトやプリン、または脂肪制限をしていない普通の入院食の後だったので、問題はその後であるが、まぁ今から心配しても仕方ないだろう。とにかく食事が再開されたのは非常に喜ばしいことである。現在、夕食後3~4時間ほど経ったが、今のところ乳糜は出ていない。一安心である。

・朝食…全粥300g (全粥とは、米の量に対して水量が5倍の粥のこと。ちなみに5分粥は10倍、3分粥は20倍の水量で炊いた粥のこと。哲学者の名前はいっぱい知ってても、こんなことも私は知らなかったのである)、キャベツと少量の細切り人参のスープ煮、梅干しの練り物少量、佃煮の練り物少量、桃ゼリー、オレンジジュース。
・昼食…全粥300g、たぶん鶏ひき肉と豆腐の松風焼二切れ、南瓜煮付け、柿なます、栄養補助ドリンク。
・夕食…全粥300g、友禅豆腐、卵とじ煮、胡瓜と何かの漬物少量。

我食べたい、故に我あり / 癌闘病記 (2) 

eatingSushi
(血まみれになって寿司を喰う、いや寿司に喰われる女)

●9月28日 前日に続き点滴だけの絶食生活。一体いつまで続くのか? 前回乳糜液が透明な漿液に戻り、安心して食事を開始してすぐにリンパ瘻を再発したので、今回ドクターは慎重に慎重を期しているのであろう。思えば12日に入院して以来、25日と26日の2回の質素な食事以外、水と茶と栄養補助ドリンクを除いて16日間何も口にしていない。その2回の食事はまともな食事とは言えないほど質素で貧相なものだったが、その美味しいことと言ったら!まさに beyond description 筆舌に尽くし難いものであった。単に食べるということがこれほどまでに幸福な体験であったとは!その2回の至福の食事をへたに経験してしまったばかりに、私の食への渇望は今や増すばかりである。

 今回、緊急入院で取るものも取り敢えず入院した訳だが、後日、このiPadも含めて、母親に部屋にまで必要なものを取りに行ってもらった。その際、日項忙しくてじっくり読めなかった洋書の小説やら哲学書などを数冊持ってきてもらった。癌の闘病生活と言えば生死を熟考するいい機会、そりゃ文学と哲学だろうという浅はかな軽い乗りである。小説の方はその展開につられてある程度読み進められるのだが、哲学書の方はと言えば、「なぜ世界は存在しないのか」という逆説的なタイトルの、新実在論というポストモダン哲学の一つらしいのだが、これがまったく集中できない。

 読もうとすればするほど、文章に集中しようとすればするほど、逆にまったく哲学的でない一つの想念が頭をもたげ、私の頭はそれでいっぱいになり、やがてそれが私全体を呑み込んでしまうのである。そう、疑わしいすべてを捨象した果てに残る唯一否定し得ない「この思考する主体」、それを唯一確かな依り所としたデカル卜のように、唯一確実な実体とも呼べるほどリアルな一つの想念。その前では、それ以外の想念、概念、思念などはすべて空疎な虚妄とすら言えるただ一つの想念、それは「食べたい!とにかく何か食べたい!」なのである。「我思う、故に我あり」ではない。まさしく「我食べたい、故に我あり」である。「生」「生きるこの私」の原点はまず食べることにある。それ以外の思念、思考、思想は「食」が確保されて初めて存在する空虚な実体のない幻のようなものにすぎない。まず何でもいいから食べるという生物学的な側面が、人間が人間的であるための条件の基底を支えているのである。そうであれば哲学などというものは単に、食を満たされた独善的な知識人の高踏で優雅な思考の遊びにすぎないのではないか?日本の国境の内側にいればなかなか見えてこないが、世界には、人間が人間的であるための基底を支えるその「食」ということすら十分に成立し得ない人々が驚くほど多くいる。だとすれば、人間を人間的たらしめるためには、先ずは政治学、経済学の方が哲学などよりよほど重要であるのは言を俟たないことであろう。(必ずしも現状はそうでないことが残念であるが。)

 さすれば、哲学の意義などというものは一体どこにあるのであろう?矢張り先ほども述べたように、それは食を満たされた一部の人間の贅沢な思考の戯れにすぎないのか?今の私にはどうもそうとしか思えない。だからと言って、学生の頃より古今の哲学者達の哲学書に慣れ親しんできた私にとって (習得してきたとは言っていない。あくまでも「慣れ親しんできた」である) 、その哲学的思考の遊びを無意味なものだと切って捨てることは到底出来ない。思考の遊びだけではなく「遊び」そのものが、人間性の本質の一つであることは言うまでもないことだからである。歴史家ホイジンガ曰く、我々はホモ・ルーデンスなのである。ただ現在は、その重要性が食への渇望の前に霞んで見えるだけなのかもしれない。

 とにかく何か食べたい!矢張り寿司だ、寿司がいい。しかも、高級で贅沢なものでなくてもいいから、スーパーや回転寿司の寿司ではなく、寿司職人の握った寿司が。人肌の、ふっくらとした銀シャリに、しっとりと艶のある新鮮なネタ・・・。口の中でふわりと広がるあの感触。結局そこ?何とも凡庸な展開であるが、まぁいつものことだ。凡庸な精神には所詮、凡庸な思想しか宿らない。なら Again!「生」の原点は「食」にあり!流石にあまりに凡庸すぎて我ながら呆れ返るが致し方ない。食べたい!これが現在の唯一確かな私の “コギト” なのだ。翻って言えば、「食べたい!」そう強く願える間は生への執着が強いということであり、それが癌闘病の先ず何よりも重要な条件なのである。食べたいと思えなくなれば、人間、the end、おしまいである。(※コギトとはラテン語で「我思う」の意。デカルトの「我思う、故に我あり」はラテン語で “Cogito ergo sum”「コギト・エルゴ・スム」)

 ある看護師に、とにかく少しでも早く食事を再開したいと訴えると、ドクターはこの土日は休みで、ドレンの廃液の状態を見ながら食事再開の判断を下すのは、早くても週明けになるだろうとのこと。最低でもあと二日この状態が続く。考えただけでも気が遠くなりそうである。寿司が喰いたい!いや、以前、寿司の怪物が人間を襲うという、井口昇という監督の「デッド寿司」という映画があったが、せめて食べることが叶わぬなら、いっそのこと寿司に喰われて死んだら本望であろうか?などと下らないことを考えながらこの二日間やり過ごすしか、どうやら仕方無さそうである。「我食べたい、故に我あり」。

※冒頭の写真は、その井口昇監督の「デッド寿司」のワンシーン。とは言っても、私はその予告編しか見たことがないのだが。

Real Beginning of the End / 癌闘病記 (1) 

angelvsdeath

 前々回、長い終わりの始まりなどというような記事を書いた。もちろん人は誰しも、この世に生を授けられたまさにその瞬間から、長いにせよ短いにせよ、その生を終わらせる皮肉な道を歩み始めることになるのだが、その旅は必ずしも意識的なものではない。前々回書いたのは、そのこれまでの道程を自分なりに振り返り、意味と形を与えられるものにはそれらを与え、これからの旅をより意識的にじっくり味わいたいといった気持ちを述べたぐらいのものにすぎない。ところが私の運命の神はまたしても親切なのか意地悪なのか、その私の言葉に迫真の意味と深みを与えて下さった。これは本当に運命の神に感謝すべきなのかどうか?

 もうタイトルからお察しのことであろう。癌に罹った。この癌闘病記では、自らの備忘録としてその経緯を、時には余計な戯れ事にもお付き合い頂きながら、書き留めていきたいと思う。

 これまでの経過(上の方が最新です)を記憶を辿りながら簡単に記すと・・・

●9月27日 夜には乳糜液は止まり、ドレンは再び透明の漿液に戻り、それ自体も量が減ってくる。
●9月26日 朝の食事は七分粥(梅干し練り物少々)と炒り卵をほんの少し、ヤクルトジョア。10時に薄味の具のない茶碗蒸し。昼はワカメとかまぼこ入りうどんハーフサイズ。杏仁豆腐風豆腐ゼリー。普通のヤクルト。その後、2時過ぎにリンパ瘻再発。再び絶食治療に戻る。
●9月25日 未明にはドレンの液が乳糜色から透明な漿液にもどる。夜に試験的に食事を開始。五分粥。人参とブロッコリーを一切れずつ、親指ほどの小さな照り焼きチキン。ナスのクリーム煮を少々。
●9月24日 朝からヨーグルト、杏仁豆腐、プリンなどを食べる。その後、昼過ぎよりリンパ瘻(ろう)または乳糜(にゅうび)瘻という合併症を発症し、点滴だけの絶食に戻る。乳糜とは脂肪あるいは遊離脂肪酸が乳化しリンパに混ざった乳白色の体液であり、乳糜瘻とはその乳糜がリンパ管から漏れ出てきてしまうことを指す(Wikipedia)。通常、腸の手術後、不要な浸出液を外に排出するドレン管を腹部に刺していて、大抵は漿液と呼ばれる透明な体液が透明なビニールのドレン管を流れているのだが、私の場合、それが突然真っ白になったのである。今までずっとそれは透明であり、それで正常だと言われて来たので、それを見た途端、当然のことながら私の頭も真っ白になった。何じゃこりゃ?!
●9月23日 痛みがかなり和らいでくる。最初の流動食の許可が下り、朝からプリン、ヨーグルトなどを食べる。
●9月20~22日 激しい痛みが襲う。痛みの感覚というのは人により大きく異なり、また年齢によっても変わり、通例若いほど痛みは大きいらしいのだが(ここでは62才の私は十分苦い部類に入るらしい。なるほどこのガン病棟、辺りを見回せば患者のほとんどが70、80以上の人ばかりである)、これまで大病を患ったことがなく、大きな怪我も手術も入院も一度も経験したことのなかった私にとって(それはそれで非常に幸福なことであるのだが)、これは人生最大の苦痛であった。
●9月18日 開腹手術。執刀医はY先生。手術自体は成功。経過は頗る良好らしい。
●9月16日 輸血、何らかの検査。
●9月15日 輸血、何らかの検査。
●9月14日 輸血、何らかの検査。
●9月12日 諸々の検査の為、K大病院来院。貧血(赤血球値が苦い人の半分ほどしかないと言われる)による衰弱がひどく、そのまま緊急入院。絶食点滴開始。
●9月10日 K大病院来院。大腸内視鏡検査。あまりに痛く、内視鏡が患部にまで達せず。
●9月6日 K大病院来院。外来はT先生。諸々検査を受ける。
●9月3日 中規模のU病院を訪ねる。U病院は8年前、母親が大腸癌を患った際、手術を実行し、その後の再発もなくほぼ完治させた、私に取って好感度最大の病院である。そのU病院で即日CT検査を行い、大腸(正確には右脇腹を下から上に走る上行結腸)に約10cm大の腫瘍が発見される。まさしくガーン!である。だがU病院は8年前とは違い外科医が少なくなっており、また、これほどの腫瘍はもっと大きな大学病院で治療を受けた方が良いと言われ、その場でK大病院に紹介状を書いてもらう。
●8月最終週 疲労度がさらに大きくなり、腹部の痛みも増し、早退、欠勤をするようになる。
●8月中旬~下旬 疲労度が増し、はっきり腹部右脇腹辺りに違和感、不快感と軽い痛みを感じ始め、触って大きなシコリを認めるようになる。
●2018年に入り、いつ頃からか、例年になく疲労感を感じるようになる。また、これまで最大65kgあった体重も60kgを割り始める。しかし疲労感に関しては例年よりも仕事が増えており、または年齢のせいでもあると、そして体重減も昨年以来酒量をぐっと減らすようになったせいであると自分勝手に思い込んでいた、いや思い込もおうとしていた。とにかく仕事を休むわけにいかなかった。今思うと完全なレッドサイン点灯であるが、体重が減ったのはいいことだとばかりに、超多忙な日々をひたすら気力と高カロリーの過食で乗り切る毎日であった。(その体重は現在50kgしかない。)

※冒頭の絵は、頻死の重病人の腹の上でカードに興じる天使と死神。作者不詳。さて、どちらが勝つか? 天使の悩む表情から、どうやら死神優勢のように私には窺えるのだが・・・。

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