ラッシュライフ / 伊坂幸太郎 

lush life

『ラッシュライフ』伊坂幸太郎


父に自殺されたトラウマを持つ青年。彼はある新興宗教の教祖に「神」を見る。だが同じ団体の幹部に、その神の「解体」を持ちかけられる。

リストラされ40社連続不採用記録更新中のさえない中年男は駅前で汚い老犬を拾う。その野良犬は不思議な落ち着きと分別を持ち、彼を奇妙な運命へと導く。

サッカー選手との不倫関係の女性精神科医。お互いの配偶者を殺す計画を練り、相手に妻を殺すよう迫るが、その彼らにとんでもなく厄介な出来事が…。

被害者に無用な心配をかけぬようにと、空き巣に入った家に盗んだ物のメモを残す「心優しき」泥棒。

そして、勝手につながって歩くバラバラ死体。

それらの荒唐無稽な物語りが、少しずつどこかで繋がり、巧妙に織り込まれた一枚の布となり、やがては、大きな騙し絵のごとき世界を形作っていく。

一見無関係な登場人物が出会い、一つの物語りを作る、そのようなタイプの小説を群像小説というのだそうだが、そういう意味では、少し前に紹介した奥田英朗の「最悪」に似ていると言えなくもない。

だが、「最悪」がかなりドライな味の小説なのに対して、こちらの方は実にシュールかつファンタジックで寓話的(読後感は奇妙に似たものがあるのだが)。いたるところに機知に富む台詞が散りばめられ、それがあまりにも決まりすぎていて、少し安っぽい感じがしてしまうのは否めないが、練り上げられた構成の巧みさには脱帽するしかなく、今までの日本の小説には無かったタイプの、非常に新鮮かつ奇妙な香りの、文句なく面白い小説と言える。本好きで、まだ読んだことのない人は是非。

「大きな騙し絵のごとき世界」と先ほど書いたが、それこそがこの小説の最大の狙いで、その意図は文庫本口絵に、有名なエッシャーの絵「上昇と下降 (Ascending and Descending)」が掲げられていることからも分かる。

ascending and descending

このエッシャーの「上昇と下降」、「滝 (Waterfall)」と並んで、現実にはあり得ない堂々巡りの奇妙な空間を描いたものだが、「滝」と違い「上昇と下降」は、二列に相対した兵士たちが同じ階段を永遠に上り続ける、または下り続ける、その空しさというか徒労感が、現代の私達の(あるいは私の)生活を如実に象徴しているようで、どこか人生を感じさせ、非常に味わい深い、というよりも、切ない。

waterfall

そして、これは伊坂幸太郎が小説中でも指摘していることだが、この絵には、永遠の行進には加わらないで、それに背を向ける形で入り口の階段に座る兵士と、その行進をぼんやり見上げる兵士が描かれている。それは「滝」も同じで、洗濯物を干す一人の女性と、そしてそれとは別に、永遠の水の流れをぼんやり見上げる人物が描かれている。

そのことの意味はいろいろ解釈のしようがあろうと思うが、あれこれ書き過ぎると、あまりに無粋になるので、ここではやめておこうと思う。

一つ気になることは、この小説のタイトルであるラッシュライフ。
タイトル頁裏に、すべて日本語でラッシュと読める英単語の lash, lush, rash, rush という4つの語とその意味を掲げるという凝りようだが、ジャズ好きなら、すぐにビリー・ストレイホーンの名曲「Lush Life」や、それを演奏したコルトレーンの名盤「Lush Life」を思い起こすであろう。

そのコルトレーンの「Lush Life」のことは小説中でも取り上げられている。絵を株のように売買し巨万の富を築き、金で手に入れられないものはないと豪語する画商の戸田が次のように言うくだりがある。
「コルトレーンの名演だ。Lush Life。豊潤な人生。いいじゃないか。私は今この瞬間、別の場所で同時に生きている誰よりも豊かな人生を送っている。…」

また、失業者の豊田が明るさと生きる希望を取り戻して終わる小説の最後も、こう締めくくられる。
「ラッシュライフ -- 豊潤な人生。」

確かに lush には「豊潤な、豊かな、みずみずしい」などという意味があるにはあるのだが、また同時に「大酒飲み」という意味もあり、「Lush Life」の歌詞は、簡単に言えば、飲み屋に出入りしているうちに好きになった水商売の女にふられて、飲んだくれるというもの。それ故、ビリー・ストレイホーンの名曲「Lush Life」の意味が「酔いどれの人生」程度の意味であるのは確か。伊坂幸太郎がそれを知らなかったとは思えないのだが。


Life is lonely again
And only last year
Everything seemed so sure
Now life is awful again
A trough full of hearts could only be a bore

A week in Paris could ease the bite of it
All I care is to smile in spite of it

I'll forget you, I will
While yet you are still
Burning inside my brain
Romance is mush
Stifling those who strive
So I'll live a lush life in some small dive
And there I'll be, while I rot with the rest
Of those whose lives are lonely too


何?
結局、お前のことじゃねーかって?

酔いどれの人生。それもいいかもね。
永遠の堂々巡りから抜けるには。


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Holly J / Guy Barker 

holly_j

『 Holly J 』

ガイ・バーカー Guy Barker (tp)
ナイジェル・ヒッチコック Nigel Hitchcock (as / ts)
ジェイソン・リベロ Jason Rebello (p)
クリス・ローレンス Chris Laurence (b)
クラーク・トレーシー Clark Tracey (ds)
フランク・リコッティ Frank Ricotti (vib)

録音1989年3月


桜は終わったが、そのあとにはハナミズキ。
そしてホオジロのさえずりが一段と愛らしく、くっきりと聞こえてくるようになる。そのように毎年、変わらず繰り返されること。それは変わらないことに意味がある。その中で、人は、ゆったりと優しく大らかでいられる。

「変わらなければ!」というのは、ひょっとして文明人の大いなる錯覚?
単なる、とんでもない思い込み?無意識の強迫観念?

今、大切なのは、自分の中の、自然の声に、耳を澄ますこと。
作り物ではなく。


脈絡はないが、久しぶりにジャズを。

『 Holly J 』 -- UKジャズ・トランぺッターの代表格の一人、ガイ・バーカーの1stアルバムで、私の大好きな一枚を紹介したい。

ガイ・バーカー。ワンフレーズで聴く者の心をつかむような、実に雰囲気のあるトランペットを吹く人である。テクニックは相当なもので、ゆったりとした曲でもテンポの非常に速い曲でも、閃きと豊かな歌心にあふれた、息の長い、決して飽きさせることのないアドリブメロディを吹く。曲も、ジャズらしい魅力と粋なかっこ良さにあふれた、実に印象的ないい曲を作る。演奏、作曲の両面において、これほどの実力の持ち主が、日本では少し知名度が低すぎるのではないかと思えるほど。

当時、彼は31才。それまでギル・エヴァンス・オーケストラなどで活躍していたとはいえ、31での初のリーダーアルバムは、この才能と実力の持ち主にしては、かなりの遅咲きと言えるかもしれない。その分、それがこのアルバムを、演奏、曲調、雰囲気のすべてにわたり、若々しく才気走ったブリリアントな面と、ゆったりと穏やかで成熟した面を併せ持つ、実に魅力的な一枚にしているのであろうと思う。

1957年12月26日、ロンドン・チズウィック生まれ。父は俳優でありスタントマン、母は女優。幼い頃から音楽的才能を示し、13才で、幾多の傑出したブリティッシュ・ジャズ・ミュージシャンを輩出してきた NYJO (The National Youth Jazz Orchestra) のメンバーとなる。1975年、英国王立音楽大学 (RCM) に進む。その頃すでに、多くの仕事を抱える売れっ子スタジオミュージシャンであった。RCMを中退後、21でニューヨークに渡り、NYで活躍する数多くの若手ミュージシャンと出会い、共に演奏する。その彼らと初の自己バンドとなるクインテットを結成、イギリスに帰国後、そのクインテットでUKツアーをする。

その後、クリス・ハンターとクインテットを結成し活動する。かたわら、さらに引く手あまたの売れっ子セッション・ミュージシャンとして活躍、ジョージ・ベンソン、スティング、クインシー・ジョーンズなどと共に仕事をする。1983年にはギル・エヴァンス・オーケストラのメンバーとしてレコーディングやツアーにも参加。1980年代半ば頃からは、ブリティッシュ・ジャズの重鎮スタン・トレーシー(ピアノ)の息子であるクラーク・トレーシーのクインテットに正式メンバーとして参加、3枚のアルバムに加わり、その父親のスタン・トレーシーとも緊密な活動をする。その他、ダスコ・ゴイコヴィッチやジョン・サーマンのアルバムにも参加、1988年にはオーネット・コールマンとも仕事をする。

そして、その翌年、満を持したかのように世に出したのが、この 『 Holly J 』 である。

アルバム全6曲中、スタンダードは、バラードの名曲 "It Never Entered My Mind" の1曲のみ。他はガイ・バーカー作曲が3曲。残りの2曲は、アルトとテナーで参加しているナイジェル・ヒッチコックの作品。曲調はハードバップからモーダル、そのすべてが変化と工夫に富んでいて、構成も非常に巧みで、最後まで飽きることがない。

また、メンバーも、ジャズのみならず様々な分野で活躍する個性的な実力派ばかり。ピアノのジェイソン・リベロは最近のジェフ・ベック・グループのキーボード奏者としても有名。かつてはウェイン・ショーターのグループにも参加。来日ツアーでは、ウェイン・ショーターともジェフ・ベックとも、日本に来たことがある。また他に、実力派ジャズメンを起用するスティングのツアーなどにも参加している。

クリス・ローレンスは1949年1月6日生まれの実力派英国人ベーシスト。チック・コリア、キース・ジャレットなどに影響を受け、ジョン・サーマン、アラン・スキッドモア、ジョン・テイラー、ケニー・ホイーラーなど多数のアーティストの作品に参加。最近は、このアルバムにも参加しているフランク・リコッティらとカルテットを結成し活躍中。

そのフランク・リコッティは '60年代からジャズのみならずクラシックやロックなど横断的な幅広い領域で活動を続ける、天才ヴィブラホーン奏者兼パーカッショニスト。参加作品は膨大な量に及ぶ。このアルバムの持つ、みずみずしく爽やかで、現代的な雰囲気は、彼のヴァイブに負うところも大きい。

そして、そういった強者(つわもの)に混じり、ガイ・バーカーと並び刮目すべき演奏をしているのが、1971年生まれ、当時、弱冠18才であったナイジェル・ヒッチコックである。11才で前記のNYJOに参加、その翌年から5年間、首席アルト奏者を続けた彼は、16歳でプロの道に入り、めきめき頭角をあらわし、若くしてトム・ジョーンズやレイ・チャールズら世界中の幾多の有名ミュージシャンのバックで演奏する機会を持った超実力派ミュージシャンである。このアルバムの演奏も、そうと言われなければ18才の手によるものであるとは到底思えないほど素晴らしい演奏で、特にそのテナーはマイケル・ブレッカーをも彷彿させるスリリングで堂々たる見事な演奏である。また、作曲の才能もあり、1曲目と5曲目が彼の作品。特にその1曲目は、リスナーを一気にこのアルバムの世界に引き込む魅力的な作品で、ガイ・バーカーがこれを1曲目に持ってきたのも十分に頷ける。

アルバムタイトルでもあり、このアルバム最後を飾る 『 Holly J 』 はガイ・バーカー作曲の作品で、前年に生まれた彼の娘、Holly Joan Barker に捧げた曲。ゆったりとしたテンポの、情感豊かなワルツで、娘に対する彼の穏やかで優しげな眼差しと愛情がうかがえるような作品。

この、話題にもほとんど上らない隠れた傑作、ぜひ一度聴いてみてほしい。


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最悪 / 奥田英朗 

最悪

『最悪』奥田英朗


いくら何でもこのままではまずいと思い、ジグソーパズルの空いた箇所に「あ〜面倒くさい。ま、これでいっかぁー」と微妙に形の違うピースを強引にぎゅぎゅっと押し込むように(のんびり楽しむジグソーパズルに、そんなやつはいないか?)仕事のオファーをほいほい受けているうち、今年度の講義スケジュールが、本当にぴっちり嵌ったジグソーパズルのような事態になってしまった。結果、超多忙であった昨年、一昨年よりもさらに忙しくなりそうなこの一年。

これで経済的には最悪の事態は避けられそうなわけだが、というよりもむしろ、悪魔にむしり取られた分を(あくまでも私の心の中に住んでいた悪魔だが)一気に稼ぎ出せそうな勢いなのだが…。

果たしてこれで良かったのか?

どうしても埋めることのできない空虚感、生きることの無意味感、何かざらざらっとした砂のような日常感、消すことのできない「自分の人生はこのままでいいのか?」感、それらはまだそのままに残ったままなのである。ああ、まだるっこしい日本語。英語で言えば、They are left intact there. ま、そんなことはどうでもよいのだが。

それを、経済的にあえぎながらも、じっくり考え、見つめ直すつもりでいた。のだが…。
って、お前、ほんとか?
まずいと思い、焦って、ばたばたっと仕事を入れたのは一体誰だ?誰でもない、この自分だ。経済的にまずいというよりも、ぽっかり空いた時間と心の穴がさらに最悪な事態を招くのが怖かったからなのかもしれない。

で、それで本当に良かったのか?

この時代、それだけ仕事があるだけましだと謙虚に受け止め、ごちゃごちゃ考えずに、ただ黙々と働くべきなのか?

黙々と、というわけにはいかないであろうが、受けてしまったものは仕方がない。結局、また、ゆっくり風景を眺める暇もなく、この一年を走り抜けることになるだろう。これまでと同じように。

本当にそれでいいのか?

ひょっとして、それでいいのかもしれない。良くないのかもしれない。
そんなことすら分からないまま、また日常に流されようとしている。

冒頭に掲げた奥田英朗の『最悪』。
その「最悪」という、ほんとに最悪そうなタイトルに釣られて買った小説であるが、「ひどい、恐ろしい」という意味を持つ terrific という英単語が、同時に「最高!素晴らしく素敵!」という意味を持つように、確かに「最悪」な小説であった。

その日暮らしのどうしようもないチンピラで、トルエンをめぐり本物のヤクザに追われる和也。不況にあえぎ、取引先の無理な注文に追われ、近隣とのトラブルに頭を悩ませながら、銀行の危ない融資話に乗り、一か八かの事業拡大を試みる小さな町工場社長の川谷。家出の妹を抱えた家庭問題や、職場でのセクハラに悩む銀行員のみどり。最初はゆっくりと、やがて坂を転がり落ちていくように、それぞれの「最悪」へと向かう三人。その三人が出会った時、「最悪」な運命は、さらに「最悪」な、とんでもない方向に…。

この奥田英朗は、かなり好きな作家であるが、この『最悪』はとりわけ好きな作品だ。「最悪」を経た者だけが持つ、あっけらかんとした奇妙な明るさ。生きてさえいりゃ、あとのことはどうでもいい。些細な取るに足りぬことに過ぎぬ、という…。どうにでもなれ、それが人生、という…。


結局、「最悪」を避けたのだろうか、私は?
果たして、それで本当に良かったのか?

辛子蓮根のように、心の穴に仕事を隙間なく埋め込み(比喩がちょっとおかしいな。ま、いっか)、また何かを誤摩化し、棚上げにしたにすぎないのではないか?そういう疑問が消えない。

そういう意味では、彼女はやはり悪魔ではなかったのだろう。悪魔でいてほしかった。
って、何を埒のあかんことを言ってんだろうね、俺は…。甘いわ。


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la bella vista / Harold Budd 

la bella vista

『 la bella vista 』 Harold Budd


花冷えの、雨の日曜日。

悪魔と手を切る。やっとのことで。
おびただしい量の血を、ではなく、おびただしい数の1万円札を流した果てに。

すっかり魂を抜かれ、もぬけの殻も同然のこの私の脆弱な精神に、いまだ付きまとい、巣食っていた悪魔。髪の長い、本当に美しい悪魔だった。

もとより、神や悪魔とは人間の脆く、弱く、邪(よこしま)な精神が生み出したもの。内部にのみ巣食うものを客体化し、切り離すことにより、己の愚かさと責任を誤摩化そうとする狡猾な精神の所作にすぎない。彼女は単に、とてもとても美しく、お金とお金のかかる物が大好きな一人の女性にすぎなかった。それを悪魔にしたのは、誰でもない、私の心である。

それも、もう終わりにした。
目が覚めた、とか、改心した、とか、そういうのとは少し違う。
膿んだ自分の心に倦んだ、という感じだろうか。

最近、Harold Budd ばかり聞いている。
やはり病んでいるのか、病んでいないのか。

この 『 la bella vista 』 は、ひたすら耽美的で幻想的な Harold Budd の他の諸作品と比較しても、とりわけ、澄みきった水面のわずかなさざ波のような静謐な美しさに満ちたピアノソロ作品集。

前回の 『 Avalon Sutra 』 といい、この 『 la bella vista 』 といい、あまりに聞きすぎると、魂がこの世に帰ってこなくなる恐れあり。


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Avalon Sutra / Harold Budd 

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『 Avalon Sutra 』Harold Budd

すでにクレジットカード3枚すべて、ショッピングとキャッシング双方の枠で限度額一杯に張り付いている。さいわい、まだサラ金には手を出していない。

銀行の残高は現在1万と少し。財布の中は3520円。これから月末にかけて銀行から落ちる金が22万ほどある。しかし月末まで給料は入らない。

そして呑気にこんなブログを書いている自分がいる。または、そんな自分をぼんやり眺めているような自分がいる。どうして自分はここまで自分を追い込んでしまうのか。

生きる張り合いがまるでない。仕事は何とかこなしてはいるものの、work ではなく完全に labor と化している。

生きがいがない人は、ある人に比べ、病気などで死亡する割合が1.5倍に高まるのだそうだ。1年前そんなニュースがあったのを思い出す。確か東北大学の医学チームの研究か何かだ。

だからと言って生きがいなんぞ無理に持とうとは思わないが、この心の空洞は何かで埋めないと毎日がつまらなくて味気なくて仕方がない。

いつもいつも青いうっすらとした悲しみがある。この Harold Budd の Avalon Sutra のような。完全に向こうに行ってしまえば、戻って来れない。


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照柿 / 高村薫 

terugaki


「人生の道半ばにして
 正道を踏み外したわたくしは
 目が覚めると暗い森の中にいた」

          ダンテ『神曲』地獄編1・1〜3


プロフィールに「スローペースかもしれません。 のんびり、ゆったりとお付き合いいただければ幸いです」などと書いているのだが、これではあまりにもスロー、まるで上映してすぐに映写機が壊れ、カタカタという音ともにコマ速度が徐々に落ち、そのうちぴたりと止まってしまった古いつまらない映画のよう。それでもぱらぱらといた観客も、どうなってんだ?どうなってんだ?がやがやとしばらくは待つものの、待てど暮らせど再開しない映画、あ〜、なんだ、なんだ、せっかく来てやったのに面白くね〜、帰ぇろ、帰ぇろと一人去り、二人去り。…そして誰もいなくなった伽藍のようながらんとした館内に、深夜、ふたたび映写機の音がカタリ……カタリ……カタ…カタ…カタ・カタ・カタ・カタカタカタ・カタタタタタttttttt……。


最後の記事を書いてから11ヶ月。
実はこの間、1500万ほど金を使った。正確に言えば9ヶ月ほどの期間。何に使ったかというと、まぁ、これがありがちなことで…水商売の女と酒。

ほんとにバカだねぇ、いやぁ、多少賢い振りはしてても、ここぞという時にここまで自分がスマートで賢明な選択をまったく出来なくなるバカで愚かな男だとは…まぁ、薄々自分でも分かっていたのだが、それにしても、ここまでバカだったとは…。

「小人閑居して不善を為す」と言う。
けっして閑ではなく、むしろ目が回るほど忙しかったのだが…。

英語の諺では "The devil finds work for idle hands." という。
他に "Idleness is the mother of all evil." とか、
"An idle mind is the devil's workshop." などとも。
これなんかもきついね。"By doing nothing, we learn to do ill."

なんでこうなったのか、自分の阿呆な精神の軌跡は自分でも不思議なほどクリアに意識している。一昨年の暮れ、結婚まで考えた女と別れたことが原因といえば原因だが、むしろ大きいのは、それが発端となり、それまで自分にとってあやふやだった「生きる意味」、というか、その無意味、いつもつきまとう漠然とした空虚感、それが一気に大きくなり、自分で誤摩化せなくなったこと。

だが、賢い者はこう問うだろう。「それは分かるけど、じゃあ、なぜ女と酒?」
根が賢い人には分からないだろうと思う。そこが小人の小人たる所以。(「しょうじん」と読む。「しょうにん」または「こびと」ではない。)

冒頭のダンテの言葉は、高村薫の「照柿」という小説の巻頭にエピグラフとして引用された言葉。この小説は、上記の1500万のうち半分以上を散財させた或る女(と、こう書けば彼女に失礼であろう。すべて自らの自由意志で散財したのだが)と知り合った頃に読んでいた、今でも忘れ得ぬ小説。


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空中スキップ / ジュディ・パドニッツ 

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『空中スキップ』ジュディ・パドニッツというアメリカの新進気鋭の女性作家による、全23話からなる処女短編集。岸本佐知子訳(マガジンハウス)

前々回の記事で岸本佐知子さんに触れ、それに対して頂いたねこあじさんのコメントをきっかけに知った作品ですが、これ、間違いなく私の本年度第一四半期ベスト1です。ねこあじさん、ありがとうございます。

ジュディ・パドニッツ --- 1973年マサチューセッツ州ニュートンに生まれ、ジョージア州アトランタで育つ。ハーヴァード大学を卒業後、ニューヨーク大学在籍中に発表した本書『空中スキップ (Flying Leap) 』で高い評価を受け、翌年の長編『イースターエッグに降る雪』はオレンジ賞最終候補、そしてその後の短編がO・ヘンリー賞を受賞するなど、今、非常に注目される作家。

「妄想力にもほどがある」-- 本書の帯のキャッチコピーですが、ほんとにそう言いたくなるほどの妄想力、というか空想力です。いったい何を食べたらそんな発想が湧いてくるのか、ほとほと不思議に思えるほど。全23話、そのすべてが一見シュールで奇妙きてれつ、荒唐無稽な話ばかり。

特に最初の数話はブラックな味も強く、この手の小説を読み慣れていない人は少し抵抗があるかもしれません。しかし、1話、また1話と読み進めていくうちに、何か、何とも名状しがたい、切ないような懐かしいような優しいような悲しいような、ほのかな或る感触に気づき、それが後半ぐらいになるとどんどん強まり、もう彼女の世界から抜けたくなくなるような気分になってくる。どういう感じかというと、夢、それは後で思い起こすと荒唐無稽で奇妙きてれつなことばかりですが、しかし、だからと言って嘘っぱちの世界なのか、断じてそうではありませんよね。目覚めてからも、何か懐かしい切ない気持ちが満ち満ちていて、それが、現実の世界以上に、紛うことのない真実の在り処を教えているようで、いつまでも夢の淵にぐずぐずしていたいような、そんなこと、ありません?

この彼女の作風、訳者の岸本佐知子さんのあとがきによれば、最近アメリカの文学界で台頭してきたアンリアリズム(シュールリアリズムではなく)という流れのもので、ジュディ・パドニッツは、その強力な担い手なんだそうです。とにかく文章がいい。簡潔で分かりやすく、乾いていて、それでいて同時にしっとりとした感触を持ち、時々現れる遠慮がちな比喩は、はっとするほど瑞々しく、美しい。(その同じ文をその場で10回ぐらい繰り返して読むことも何度かあったほど。)

しかし、彼女の小説のこの魅力は、どこにあるのか。この『空中スキップ』の、私を引きつけてやまない魅力の中心は何なのかを考えてみると、それは、単に文章の巧さ、小説としての上手さ、テクニック、文体などというものではなく、彼女の心の中にある「何か」であるような気がします。岸本佐知子さんも、あとがきの中でこう述べています。「だが彼女は単に奇抜な話の語り部というだけではない、もっと切実な想いに突き動かされるようにして書く人であるように、私には見える。」いたく同感です。

最後ですが、岸本佐知子さんの訳、ほんとうに素晴らしいです。この『空中スキップ』の魅力の半分は、この人の翻訳の力によるものだと思う。

この、奇妙でシュールでブラックで、そして切なく悲しく懐かしい、このパドニッツ・岸本ワールド、ぜひぜひぜひ、あなたにも体験してほしい。


ここからは余談ですが、ずいぶん以前のこと、どこのサイトだったか忘れたのですが、日常のちょっとした面白おかしな妄想を投稿するというコーナーがあり、これがやたらと面白く、夜中コンピューターの画面に向かい、一人クスクス、ケラケラいつまでも笑っていたことがあります。(自由律を一句。「ネット見て一人笑う夜」。尾崎放哉の有名な句「咳をしても一人」に匹敵するほどの無限の哀愁と寂寥感が漂っていて、自分で書いておきながら、たまりません。)

閑話休題。
その妄想コーナーに寄せられていた話は、もうほとんど忘れてしまったのですが、一つだけ折に触れ、いまだに思い出すものがあります。昔、クローネンバーグの映画に、他人の思考をスキャンし、コントロールし、破壊すらしてしまう力を持つ人間を描いた「スキャナーズ」という、とても恐ろしい、そしてとてもファンタスティックな映画がありましたが、電車に乗って座席に座っていると、ふと、車内の乗客に超能力者がいて、自分の心を読んでいるのではないかと妄想し、不安に駆られるというものです。

時々、人がけっこう乗ってるのに、車内が妙に静まり返っていたりする時がありますよね。シラ〜ッとしたあの雰囲気。すぐれて日常的な風景の一つでありながら、どこか空恐ろしい狂気をかすかに孕んでいるような、ざらついたあの静寂。その中で人はそれぞれ自分だけの世界に浸り、腕をくみ、うとうと居眠りをしていたり、宙を見つめ考え事をしていたり、ケータイをいじっていたり、本や雑誌を読んでいたり、ぼんやり車内広告を眺めていたりするのですが、そういった雑多な者の中に混じり、一人こっそり私の心を読み、ほくそ笑んでいる者がいるとしたら…

そういうプチ妄想は誰もが一度や二度抱いたことがあると思います。しかし、先ほどの投稿の氏は、あまりの不安に、たとえば目の前に座って何気なく膝の雑誌を読んでいる女性が「スキャナー」でないかどうか、いちいち確かめなければ気が済まないのです。確かめると言ったって、どうやって?それは、その人に向かって、心の中で言うのです。「鼻毛、出てるよ」

「スキャナー」であれば思わず手を鼻のところにもっていくはずです。それほど「鼻毛、出てるよ」というのは不意をつく「恐ろしい」言葉なのです。

で、何も反応がなければ、とりあえず、その人は「スキャナー」ではないということで、今度はその隣に座っている人に心の中で念じるのです。「鼻毛、出てるよ」と。そうやって、ひとわたり車内の全員に「鼻毛テスト」を試し、一人も反応しないことを確かめてやっと彼はホッとするのですが、その頃にはもうくたびれ果てて、ぐったりしている。だって、車内の全員に強力な念波を一人必死で送っているのですから。

この話の恐ろしさは、これを単に笑って済ますことができないところにあります。だってあなた、次の日、電車に乗った時、偶然向かいに座った人に心の中で「鼻毛、出てるよ」と言わないで済ませられます?絶対に無理ですよ。この話を思い出したら、必ず心の中で言いたくなります、「鼻毛、出てるよ」と。必ず言いたくなるはずです。この話を思い出したら、必ず。それも、一人や二人ではなく、車内全員にやらなければ気が済まなくなる。「鼻毛、出てるよ」「鼻毛、出てるよ」「鼻毛、出てるよ」「鼻毛、出てるよ」と。しかも、一人一人の頭の中にクリアにはっきり聞こえるように、心の中で鮮明に。

そして、はっと気づくのです。「鼻毛、出てるよ」「鼻毛、出てるよ」「鼻毛、出てるよ」と次々と人に念じるという、なんとも馬鹿馬鹿しい滑稽なことを心の中で繰り返している、まさにその時、その心を読まれたら…と思うと…。…いや、もっと恐ろしいのは…そんな時、ふと心の中に誰かの声が聞こえたら。「鼻毛、出てるよ」と…。


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Blinds & Shades / Florian Ross 

blinds&shades


『 Blinds & Shades 』

フローリアン・ロス Florian Ross (p)
レミ・ヴィニョロ Remi Vignolo (b)
ジョン・ホーレンバック John Hollenback (ds) tracks 1-6
マータイン・ヴィンク Martijn Vink (ds) tracks 7-9

録音2002年1月、9月

少し前まで4月なみの陽気だったのですが、ここ数日、一転してまた寒さが戻ってきたようです。しかしその寒さも今日は少し緩むそう。まさに三寒四温。月の冴え冴えとした夜、ケータイにサンクワァンシウォォーンなどとフランス語風に鼻母音で囁き、彼女を死ぬほど笑わせたのも、去年のちょうど今頃だったか…。

(はっ。いかん、いかん、いかん。)

夜の授業はかなり遠いところまで行くので、毎晩帰ってくるのは真夜中、日付がちょうど変わる時分になります。駅から15分ほど、耳に iPod のイアフォンをさし、月や星を眺めたりしながら、上り坂になった歩行者専用道を歩きます。

道の脇から頭上にせり出した街灯が、少し間をあけて等間隔に並んでいて、その街灯の下を過ぎると、歩く自分の前に自分の影ができる。歩くにしたがい、それはぐんぐん前に伸び、伸びていくと同時に、やがて輪郭が崩れ、ぼやけ、そしていつしか闇に溶け込み、どこか私の知らない世界に消えていく。

次の街灯の下を過ぎると、再び私の足下にくっきりとした小さな影が生まれ、そして再び、ぐんぐん前に伸び、伸びれば伸びるほど道の肌ににじんでぼやけ、闇に溶け、そしてまた、どこか私の知らない世界に姿を消していく。

それでも、向いた方がたまたま前だと言わんばかりに、ただ私は前に歩くだけ。そしてまた、次の街灯の下を過ぎ…。それはさながら、自分が後ろから自分の影に次々と追い抜かれていくようでもあります。

そうやって、これまで、一体どれほど自分の影に追い抜かれていったことだろう。たとえば、ケータイを手に、毎晩毎晩、この坂を彼女と話をしながら私を追い抜いていった私の影たちは、どこに消えた。今、どこで何をしている?

(はっ。いかん、いかん、いかん、いかん、いかん。)


フローリアン・ロス --- 1972年、ドイツ、バーデン・ヴュルテンベルク州プフォルツハイムに生まれる。ケルン音楽大学に進み、ジャズピアノ科教授ジョン・テイラーに師事(そうです、ジョン・テイラーはケルン音楽大学ジャズピアノ科教授なのです)。1995年にはイギリスに1年間留学、ベンジャミン・ブリテン、ピーター・ウォーロック、エドワード・エルガーなどの20世紀イギリスの作曲家を研究。(それらの作曲家の作品に触発され、1999年に"Suite for Soprano Sax and String Orchestra"という組曲を発表している。)その後、ニューヨークに移り、イーストマン音楽学校、ニューヨーク大学などでビル・ドビンス、ジム・マックニーリー、ドン・フリードマンなどに師事、ピアノや作曲などを学ぶ。リーダーアルバムをこれまで NAXOS に3枚、intuition に3枚残している。

このフローリアン・ロス、ピアニストとしての技量・才能は一目瞭然ならぬ半耳瞭然、聴いてもらえればすぐに分かると思いますが、それに加えて、彼の音楽の魅力の大きな源泉となっているのは、何と言ってもその優れた作曲およびアレンジ能力。これまで彼は、BBCビッグバンド作曲コンクール(1996)、モナコ国際作曲コンクール(1997)、ダニッシュ・ラジオ・ビッグ・バンド国際サドジョーンズ・コンクール(2000)などを含む多数の作曲コンクールで受賞し、彼が楽曲を提供した楽団は、NDR(北部ドイツ放送協会)、WDR(西部ドイツ放送協会)、HR(ヘッセン放送協会)、SWR(ドイツ南西放送協会)などドイツ各放送局のビッグバンドを初めとして、メトロポール・オーケストラ(オランダの有名なジャズオーケストラ)、バンクーバー・ジャズ・オーケストラ、ブリュッセル・ジャズ・オーケストラ、BMIジャズ・オーケストラ、ケルン・コンテンポラリー・ジャズ・オーケストラなど、幾多にも及びます。

彼の1st リーダー作は 1998年、NAXOS JAZZ に吹き込まれた"Seasons and Places"というテナーとトロンボーンの2管編成のクインテットによる作品ですが、上述した彼の作編曲の能力は、当然、このアルバムにも遺憾無く発揮されています。軽快でスィンギーでドライブ感あふれる曲やミディアムテンポのゆったりとした曲から、陰鬱でミステリアスな雰囲気の曲、そしてフリージャズっぽい少々フリーキーな曲まで、どれ一つをとっても各楽器とミュージシャンの持ち味を十二分に活かした非常に巧みな曲作りをしており、しかもそれが全くわざとらしくなく、モダンテイストな、非常に趣味のよい高い質の仕上がりとなっていて、聴く者を最後まで釘付けにする素晴らしいアルバムとなっています。

seasons&places


…と、まぁ、少し褒め過ぎですかね。しかし、この"Seasons and Places"、ほんとにいいですよ。そして、コンポーザー・アレンジャーとしての彼が与えた構築的な枠組の中を泳ぎ回るそれぞれのミュージシャンの演奏がまた素晴らしい。今やドイツのみならずヨーロッパを代表する若手技巧派トロンボーニストのニルス・ヴォグラム(聞かせます!)。

スタン・ゲッツを彷彿させる音色とフレーズを持ちながら、ショーターチックな揺らぎと咆哮を併せ持つ不思議なテナー、マシアス・エルレヴァイン(この人、大好きです!)。

高い柔軟性を持ち、これまでエンリコ・ラーヴァ、リッチー・バイラーク、デイブ・リーブマン、ヴィック・ジュリス、ダニー・ゴットリーブ、ビリー・エルガート、ジョージ・ガーゾーン、ビル・ドビンス、アントニオ・ファラオなどとも共演(いろいろ並べてみました(笑)気になる人は自分で調べてね)してきたベーシスト、ディートマル・フーア。

シャープな感覚の実力派ドラマーであり、マーク・コープランド・トリオのドラマーとしても有名なヨヘン・リュッケルト。

そしてフローリアン・ロス…

と、ここまで書いて、少し疲れてきました(笑)
もう、やめようかなぁ…。
こらー! 肝心のフローリアン・ロスのピアノ、しかもエントリーに掲げたもっとも肝心な"Blinds & Shades"の解説をせずに終わるとは何事ぞ!!と思ってます?
まぁ、こういう紹介の仕方もあってもいいんじゃないですか〜
雰囲気は分かったでしょー、あとは想像力、想像力ですよ。

って、あんまりなんで、もう少し…。

この"Seasons and Places"を出した翌年1999年に、彼は同じNAXOSから前述の"Suite for Soprano Sax and String Orchestra"という組曲を出します。これは、The Event String Ensemble という弦楽オーケストラ+フローリアン・ロス・トリオ+ソプラノサックスから成る組曲で、ソプラノサックスのソリストにデイブ・リーブマンをフィーチャー、現代音楽風の、幻想的で非常に美しい、芸術の香り高い作品で、いずれこれは機会があればゆっくり取り上げてみたいと思っているアルバムです。

suite_for_soprano


さらに翌年、2000年には NAXOS から Florian Ross Brass Project "Lilacs and Laughter"というブラス・アンサンブルの意欲作を発表。

そして intuition へと移籍、2004年に満を持したかのようにピアノトリオで勝負したのが本作品"Blinds & Shades"(録音は 2002年)です。これは本当に素晴らしいアルバムです。

その素晴らしさに枠組みを与えているのは、先ほどから述べているように、フローリアン・ロスの洗練された曲作りですが、それを硬直的なものにせず、うねるような躍動的な美しさと艶かしさを与えているのは、やはりレミ・ヴィニョロのベースとジョン・ホーレンバックのドラムでしょうか。特にジョン・ホーレンバックのドラムは、このアルバムに、生命感あふれるダイナミックな立体感を与えています。レミ・ヴィニョロのベースも肉感的な感じがして、とてもよい。

そして、フローリアン・ロスのピアノ。あくまでも現代的に美しく、現代的に華麗で、現代的にリリカル、現代的な感覚でよく歌う。しかも冗長に堕することはけっしてなく、ロマンチックでドラマチック…と同時に硬質の無機的なクリスタルの美しさも併せ持ち、抑揚と陰影に富み、晴れ渡った空をゆったりと映す湖面の穏やかさを思わせながら、時おり風が渡り、細かな波に陽光がくだけ散るさまをも幻視させたりする。

珠玉の一枚とすら言えます。彼はこの後、"home & some other place" というクインテットによるものと "Big Fish & Small POND" というピアノトリオによるアルバムをリリースしていて、その2枚とも非常に秀逸で、お薦めなのですが、フローリアン・ロスをご存知ない方、まだ聴いたことがない方は是非この "Blinds & Shades" を聴いてみていただきたい。1曲目"Soundcheck"の粋で美しい出だしから虜になってしまうのは必至です。


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As We Are Now / Renee Rosnes 

renee_rosnes


『 As We Are Now 』

リニー・ロスネス (p)
クリス・ポッター (ts, ss)
クリスチャン・マクブライド (b)
ジャック・ディジョネット (ds)

録音1997年3月

こんにちは、皆さん。ご無沙汰しております。
時々、覗いてくださっている方がおられましたら、申し訳ありません。少し放置しすぎですね。多少なりともシンパシーを抱くブログの更新が止まっていたりすると、赤の他人とはいえ、こいつ、どうしたんだろーなんてちょっと心配になったりしますよね。と、まぁ、放置している本人がぬけぬけと言ってはいけません。この紅顔の美少年が。いや違った、厚顔無恥の輩が。 とにかく、こいつ、生きてるんかいな、と要らぬ心配をあまりおかけしない為にも、ぼちぼち頑張りたいと思います。今後ともよろしくお願いします。

ところで、いきなり、出し抜けに、唐突に、何の前触れもなく、薮から棒に、突然ですが、「青天のへきれき」という言葉がありますよね。晴れ渡った空(この場合、「晴天」ではなく「青天」)に突然に起こる雷のことで、その意が転じて、突然の大異変を指しますが、皆さん、この「へきれき」、書けますか?

霹靂 ですから。よぉーく覚えておきましょう。って、書けたからって何がどーなるわけでもありませんが。

この「青天の霹靂」、興味深いことに、英語にも a bolt out of the blue (sky) と言う表現があり、よく似た意味で使われます。また、その out of the blue だけを取り、「出し抜けに、突然」などという意味で使われたりもします。

で、出し抜けに、リニー・ロスネスです。
1962年、アイルランド人の父、インド人の母を両親に、カナダ、サスカチュワン州レジャイナに生まれ、バンクーバーで育つ。3才からピアノを、5才からバイオリンを始めるなど、幼少の頃より正規の高度な音楽教育を受け、8才から18才までの間には、青少年オーケストラでバイオリンを演奏。手がけた作品は、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ドビュッシー、ラベル、ショスタコヴィッチなど多数にわたり、彼女のお気に入りは、ショスタコヴィッチ「交響曲第五番」、ラベル「牧神の午後への前奏曲」、デンマークの作曲家でありバイオリニストであるカール・ニールセンの諸作品など。一方、小学校の頃より、彼女の才能をいち早く見抜いた学校のジャズ・アンサンブルの音楽監督にジャズの手ほどきを受け(というより無理矢理ジャズの世界に引っ張り込まれ)、ピアノを演奏、しだいにジャズの魅力に嵌るようになる。

その後、トロント大学に進みクラシックを専攻する傍ら、ジャズピアニストとしてカナダ全土で演奏活動を行い、1985年にはカナダ・カウンシル(芸術の振興と発展を助長するための、カナダの独立機関)の助成金を得て、23才でニューヨークに進出。その高い音楽性ゆえに、すぐにジョー・ヘンダーソン、J.J.ジョンソン、ウェイン・ショーターなどの大物アーチストのグループに誘われ演奏するようになり、1987年には、当時の新生ブルーノートが有能な新人ばかりを集めて鳴り物入りで売り出したグループ OTB (Out Of The Blue) の二代目ピアニストとして参加、大きな注目を集める。(このグループが輩出したミュージシャンの中でもっとも有名なのは、ご存知ケニー・ギャレットですね。)

それ以降は、様々なミュージシャンのアルバムに参加する一方、かつてのOTBの二代目ドラマーであり(初代はラルフ・ピーターソン)現在の夫であるビリー・ドラモンド、そしてベーシストのレイ・ドラモンドとのトリオを中心に主に活動、これまでも優れた愛すべきピアノトリオのアルバムを何枚も残している。現在は、東のウィントン・マルサリスに対抗し西海岸から、伝統を見据えたシリアスなジャズ・ムーブメントを起こそうとばかりに立ち上げられた、ジョシュア・レッドマン主催の強力ジャズユニット SFJazzCollective の創設当時からのピアニストとして活躍中。(そう言えば、この SFJazzCollective、今月末ブルーノート東京にやってくるそうですが…)

よく「リリカルでロマンチック」などという言葉で語られることの多いリニー・ロスネスですが、私が思う彼女の魅力、持ち味は何と言っても、そのダイナミックな力強さと凛とした芯の強さ。タッチが実にしっかりしていて音の一粒一粒がはっきりしていて、なよなよせず、きりっとした美しさを感じさせます。美しいバラードも決して情緒的な甘さに流れすぎることはなく、繊細さの中にどこか知的な計算と、意志的な強さを感じさせ、それがさらに美しさを引き立てる。そういうピアノを弾く人です。

1997年、ルディ・ヴァン・ゲルダー録音のこの "As We Are Now" は、そういう、私の大好きなリニー・ロスネスの魅力を十二分に伝えてくれる素晴らしいアルバムです。クリス・ポッター、クリスチャン・マクブライド、ジャック・ディジョネットというメンバー名からある程度その音が想像できるでしょうが、そしてまた、実際にそのダイナミズムとスケールの大きさには、その彼らが少なからず貢献しているのも確かですが、しかし矢張りこのアルバムに感じられる大胆さと繊細さと強さと美しさは紛れもなくリニー・ロスネスのもの。9曲中、5曲目ウォルト・ワイスコフの "Non-Fiction"、8曲目クリス・ポッターの "Absinthe"、9曲目トニー・ウィリアムスの "Pee Wee" を除く6曲が彼女の自作曲ですが、そのどれもが、ちまちましない構成的な大きさと大らかさ、そしてバラードは静かな強さを湛えたような美しさに満ちています。(この辺のところは矢張り、上記の彼女の経歴が大きく影響していることだろうと思います。)

特に私が好きなのは、2曲目の "The Land of Five Rivers"。この「五本の川の土地」というのは、彼女の母方の祖先の地、インド北東部からパキスタン北西部にまたがるパンジャブ地方のことで、5本の川というのは、一帯を流れるインダス川の5支流、ジェラム川・チェナブ川・ラビ川・ビアス川・サトレジ川のこと。もともとパンジャブという語は、ペルシア語で「五つの水」を意味する「パンジュ・アーブ」であり、それらの川に囲まれた豊かな地帯のことを指しています。

自作曲ではないですが、5曲目ウォルト・ワイスコフ作曲の "Non-Fiction" も実にいい。そして、7曲目、アルバムタイトル曲でバラードの "As We Are Now" の美しさ…今の私には、このタイトルだけで…。

3曲目の "Abstraction Blue" は、20世紀アメリカを代表する女流画家ジョージア・オキーフ (Georgia O'Keeffe) に捧げた曲。"Abstraction Blue" はオキーフの作品のタイトルでもあります。

『 Abstraction Blue 』 Georgia O'Keeffe

o’keeffe


以下、Wikipedia から。

「ジョージア・オキーフ(Georgia O'Keeffe, 1887年11月15日 - 1986年3月6日)は、20世紀のアメリカの画家。夫は写真家のアルフレッド・スティーグリッツ。

アメリカを代表する女流画家であるオキーフは、70年にも及ぶ長い画歴のなかで、ほとんど風景、花、そして動物の骨だけをテーマとして描きつづけた。なかでも、牛の頭蓋骨をイコンのように威厳を込めて描いた作品群がよく知られる。

オキーフはウィスコンシン州の農家に生まれ、マディソンで高校時代をすごした後にシカゴ美術研究所で絵画を学ぶ。更にニューヨークのアート・スクールArt Students League of New Yorkに入学、ウィリアム・メリット・チェイスに師事した。ニューヨーク滞在中に将来の夫となるアルフレッド・スティーグリッツに出会っている。

1908年にシカゴに戻りイラストレーターとして働いたが、1910年に病気が元で家族がいたヴァージニアに移る。一時、絵画から離れていたが、ヴァージニア大学の夏期講座に出席し、アーサー・ウェスリ・ダウに出会ったことがきっかけで再び描き始めるようになる。」

20代の頃、オキーフは自らの絵画を諦め、生計のためイラストレーターや美術の教師をしていたのですが、その後もう一度芸術家として生きようと決意します。その当時のことを回想し、オキーフは後にこう語ります。「自分が住みたいところにも住めない。行きたいところにも行けない。やりたいこともやれない。言いたいことも言えない。学校や画家たちから習ったことは、私の描きたいものを私に描かせまいとする・・・。そしてついに私はこう決心したのです。だとしたら、少なくとも私は、自分の描きたい絵を描き、自分の言いたいことを言おう。・・・でなければ、私は大馬鹿者だと。」

このオキーフに捧げた曲 "Abstraction Blue" にリニー・ロスネスの音楽に対する思いが込められているように思う。


さて、またまた唐突 (out of the blue) ですが、私は英語の講師をしている関係上、語学関連や翻訳に関する書物を読むことも多いのですが、先日から読んでいる本に岩波新書の「翻訳家の仕事」というのがあります。これは30名ほどの著名な翻訳家の、翻訳に関する思いや苦労、その他あれこれをテーマにしたエッセイを集めたもので、語学に携わる者として非常に面白いのですが、その中に岸本佐知子さんという英米文学の翻訳家のエッセイがあり、これが何とも、最近私が忘れていた、くすくすという邪気のない笑いを思い出させてくれました。

彼女は最近ニコルソン・ベイカーの『ノリーのおわらない日常』(白水社)という本を訳したそうなんですが、この本は、アメリカからイギリスに引っ越してきた9才の少女ノリーが、学校や家で体験する日常の小さな驚きや喜怒哀楽を綴った物語で、何といってもその面白さは、9才のノリーが語る語り口と、いっぱしの大人のつもりでいるその可愛い言い間違いなんだそうです。たとえば、ノリーはしょっちゅう慣用句やことわざを間違えたり混同したりするのですが、子供の論理としてそれなりに筋が通っていたりして面白かったりする。ただ、それを面白さを生かしたまま日本語に訳すのは大変で、そのまま一対一対応で英語を日本語に訳したのでは面白くも何ともない。「私は頭を抱え、腹をくくり、そしてケツをまくった。このさい一対一対応は捨てる。うまく日本語に移せるものは移すとしても、一つ一つにこだわって不自然なダジャレ訳をつけるよりは、日本人の女の子ならこういう言葉をこう間違える、という部分に間違いをシフトさせて、全体としてノリーの声が出せればいい」と岸本さんは考え、一度すっかり9才の頭になりきって、自然に浮かんでくる言い間違いを書き留めたり、近所の9才前後の子供に片っ端から尋ねたりするのですが、その苦労は並大抵のものではありません。私もちょこっと経験はありますが、翻訳ってのは実に苦しい楽しみ、であり、楽しい苦しみなんですね。そうして集めた、可愛い言い間違いをそのエッセイに少し載せているのですが、それを電車の中で読んでいて、思わず口元が緩み、何だかほっと和んでしまったのです。それをここに紹介すると…。(書きながら、もう、一人くすくす笑いが止まらない自分がいて、それもまたおかしいんですが)

「日常茶番劇」
「煮ても立っても座れない」
「朝めしさいさい」
「名なしのゾンビ」
「これにて一件着陸」
「寝ぼけナマコ」
「高値の花」
「当たってぶつかれ」
「ぼうにゃく無人」
「見くびりそこなう」
「スズメの魂百まで」
「オオカミの耳はロバの耳」
「キツネに包まれたような」
「へびこつらう」
「元のやみくも」
「お先まっ青」
「ごんべえの泣きどころ」
「三百六十度態度が変わる」
「バーベルを乗り越える」

って、いいでしょ〜!
ほのぼのしますよね。
小さな間違いに眉間をひそめて生きても仕方がない。
眉はひそめられても、眉間はひそめられないだろー!、というア〜タ。
堅いこと言わないで生きていきましょうよ。

岸本佐知子さん訳の『ノリーのおわらない日常』はぜひ一度読んでみたいと思います。皆さんもどうです。特に女性の方。

で、上の岸本さんの言い間違い、もう一つあって、それは何かというと、

「青天のへきえき」

もー、お前こそ青天のへきえきだ! と?
そりゃ、失礼しました。


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Enja 初期の Bennie Wallace 

14barblue


『 The Fourteen Bar Blues 』

ベニー・ウォレス (ts)
エディー・ゴメス (b)
エディー・ムーア (ds)

録音1978年1月
彼の1st アルバムです。ジャケットがたまらない。


liveatthepublictheater


『 LIve At the Public Theater 』

ベニー・ウォレス (ts)
エディー・ゴメス (b)
ダニー・リッチモンド (ds)

録音1978年5月
あまり注目されていないが、これは素晴らしい。


freewill


『 The Free Will 』

ベニー・ウォレス (ts)
トミー・フラナガン (p)
エディー・ゴメス (b)
ダニー・リッチモンド (ds)

録音1980年1&2月
トミー・フラナガンが意外と良い。


BennieWallacePlaysMonk.jpg


『 Plays Monk 』

ベニー・ウォレス (ts)
ジミー・ネッパー (tb)
エディー・ゴメス (b)
ダニー・リッチモンド (ds)

録音1981年3月
ある意味、ベニー・ウォレス入門盤といえるかも。


mysticbridge


『 Mystic Bridge 』

ベニー・ウォレス (ts)
チック・コリア (p)
エディー・ゴメス (b)
ダニー・リッチモンド (ds)

録音1982年5月
チック・コリアが意外と合う。アグレッシブであると同時にリリカルでシャープな雰囲気が加わった。そのチック・コリアがかなり良い。


ベニー・ウォレスです。
こういうものをまた聴き始め、ここでご紹介できるようになったということは、ま、少しは回復基調に入ったかな…と。私事で恐縮ですが。

このベニー・ウォレス、つくづく不思議な存在だと思います。いや、この人自身が、ではなく、この人の音を聞くベニー・ウォレスのファンの耳が、です。と、こう書けば誤解を招きますね。何も「ベニー・ウォレスが好きだなんてどうかしてるんじゃないか」などと言いたいのではありません。私自身、ここに掲げるほどですから、ベニー・ウォレスが大好きな一人であります。(もちろん、中には「ベニー・ウォレスが好きだなんてどうかしてるんじゃないか」と本気で思っている人もいるでしょうが…。ひょっとしたら多い?)

ファンの「耳」と書くから分かりにくいんですよね。むしろ「音の像」というべきでしょうか。最近流行りの認識論の用語でいえば、「クオリア」ということになるかもしれません。よく、同じ音楽を聴いても人それぞれ感じ方は違う、などと言いますよね。それって、突き詰めたらどういうこと?ってなことを、ベニー・ウォレスを聴いていると、いつしか考えていたりするわけです。

例えば、ベニー・ウォレスをステレオで鳴らしていて、同じベニー・ウォレス好きが横にいるとする。

「俺はベニー・ウォレスが好きで、今、このベニー・ウォレスの鳴らす音を耳で聞いて、聴覚神経がそれを捉え、そこから脳に信号が行って、俺の脳味噌がそれを解釈し、ある像を結んでるわけだが、それは当然、お前のと違う?違うよな。感じ方が違うって、そういうことだよな。そしたら、どっから違うんだ?最初は同じ客観的な音が鳴っている。しかし、その、主観とは切り離された客観というものは、人間の知覚では捉えられない。脳の中でぼわ〜っと広がったある音のイメージだけがすべてであり、そして、そこに、その人だけの或る想念だとか情念だとかがくっついている。それに、そのくっついているものは、きれいに切り分けることも出来ない。(出来るものなら、頭の中でやってみろ。絶対にできない。)だとすれば、そもそも客観的な音などというものは存在しないに等しいわけだから、初めから違うはず。つまり違う音を聞いている、ということになるよな?」

というのは、このベニー・ウォレスのジャズは、私にとって、エリック・ドルフィーや(初期の)アーチー・シェップなどと同じ感覚の引き出しに入っているのですが、どうやら、それらのミュージシャンなどあまり好きではない、どちらかというと嫌い、または大嫌いという人でも、ベニー・ウォレスは好きだという人がいるらしい、ということをある時、発見したからです。多くはないが、確かに存在するのですよ。これは大発見です。私にとってベニー・ウォレスとエリック・ドルフィーは、何らかの点で同質性を持っている。だが、ベニー・ウォレスは好きだけどエリック・ドルフィーは…という人にとっては、エリック・ドルフィーとベニー・ウォレスは異質な存在だということになる。それが私には不思議でたまらない。いや何も、そうであってはならない、といっているのでは全くありません。ただ、ただ不思議なのです。そういう人たちの耳には、いや、脳みその中では、ベニー・ウォレスの音はどういうクオリアを持っているのか?違いはどこにある?同じベニー・ウォレスを聴いていても、そういう人と私とは、ひょっとしたらまったく違う音の像を結んでいて、まったく違う音体験をしているのかもしれないのです。それを考えると、ほんとうに不思議というか、面白いのですよ。

「この目の前にあるトマトジュースの赤。しかし、あなたと私が見ているのは同じ『赤』なのか?または、同じ赤を『感じている』のか?そして、それは証明できるのか?」という議論が昔からありますが(それが、脳科学や認知科学、哲学の認識論を巻き込むクオリアの議論へと発展していくのですが)、そのレベルにとどまらず、音楽を聴くという、知覚が大きく関与しながら、同時に純粋に抽象的である、この内的体験の不思議、それを、ベニー・ウォレスは、というよりもむしろ「ベニー・ウォレスは好きだけどエリック・ドルフィーは…」という人の存在が、如実に私に考えさせてくれるわけです。

いつものように、いや、いつも以上に、訳分からない話になってきてしまいました。ベニー・ウォレスはデビューした当時、確か「コールマン・ホーキンスとアーチー・シェップやエリック・ドルフィーを合わせたような演奏スタイル」などと宣伝されたような気がしますが(違ったっけ?)、確かにコールマン・ホーキンスに非常に似ている部分がある。本人も、コールマン・ホーキンスを敬愛していて多くを学んだと言ってますよね。

こういうことになりますかね?同じものでも、違った角度から見れば、まったく違ったものに見えることがある。よく、抽象的な彫刻作品に、そういう面白さを狙ったものがありますが、ここに柔和な曲線で出来た物体を好み、鋭角的な曲線やとげとげしたものを極端に嫌う人がいたとして、その人が、ある彫刻作品Xを、非常に気に入ったと賞賛している。しかし、それは少し角度を変えてみると、その人がもっとも嫌うトゲトゲ物体に変わるのだが、彼/彼女は立ち位置を変えないため、それが円やか物体であると同時にトゲトゲ物体であることに気がつかず、心地よく鑑賞している。ベニー・ウォレスはまさにそういう希有な彫刻作品であり、そして、その立ち位置(その立ち位置を変えられない硬直性、または自在に変えられる柔軟性を含めて)こそが、私たちが感性と呼んでいるものなのでしょう。

つまり、ベニー・ウォレスはどのような立ち位置からでも鑑賞しうる素晴らしい彫刻作品だということです。
(お〜、なんという落とし方だ。我ながら呆れる。)

最近やたらと円熟味を増し、ゴールド・ディスクなんぞを2回も貰っちゃって、すっかりメジャーな存在になったベニー・ウォレスですが、この Enja の初期の作品群を知らない方はぜひ聴いて頂きたい。これが、ベニー・ウォレスです。ゴリゴリとした豪快な野太いテナー、などとよく紹介されますが、それだけでは、彼の魅力を捉え切れていないと思う。私が惹かれてやまないのは、そのアドリブラインの、何ともいえない浮遊感、壊れていきそうで壊れない奇妙な崩壊感覚。たまりません。美は乱調にあり。というか、私の今日の文章、乱調だらけですね。何が言いたいのか自分でもさっぱり分かりません。あ〜、調子悪っ。やっぱり回復はまだまだのようです。


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