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自堕落礼讃 / 終わりの始まり (2) 


JapaneseGarden
(大山公園内の日本庭園)

 食事などのこともあり、退院してから暫く実家に身を寄せている。食事は普通に食べられるのだが、まだ腸にあまり負担をかけたくないので、担当医や栄養士の話を参考にし、朝晩の食事を母親に作ってもらっている訳である。

 実家と言っても遠方ではなく、自宅から徒歩と電車でほんの1時間弱の距離にある。退院以来、その実家で朝はゆっくり起きて遅い朝食をとり、昼頃から自宅に帰ってあれこれ家の用事を済ませる。それからまた夕方近くに実家に戻り、母親の作ってくれた晩飯を食ベ、夜はそのまま実家の空いた部屋で寝るという毎日を繰り返している。

 なぜ毎日わざわざ自宅に戻っているのかと言うと、適度に歩く距離があり、入院中に衰えきった体力回復のための丁度いい運動になるのと、入院前があまりにも多忙すぎて、部屋の中がゴミ屋敷三歩手前にまでなってしまっていて (さすがに一歩や二歩にまでは及んでいない) 、部屋を綺麗に掃除し、生活を整え直すいい機会だと思ったからである。

 そして、その合い間に、普段入らないカフェに入ってのんびり本を読んでみたり、古書も多数扱っている本屋で、面白そうな、または以前に手離してしまい、今も脳裏を離れない書物をじっくり時間をかけて探してみたり、あるいは日頃寄らない場所に少し足を伸ばしてみたりという、以前の私には想像もつかないほど、ゆったりとした贅沢な日々を送らせて頂いている。

 中でも特に最近気に入っている場所が一つある。実は実家のすぐ近くに、世界最大級の墳墓であり、日本人なら誰もが一度は社会科で学習し、その存在を知っている仁徳天皇陵がある。折しも、外部機関の発掘調査を頑として認めてこなかった宮内庁が、堺市と共同で仁徳天皇陵の発掘を行う予定であると発表したばかりであるが、その仁徳天皇陵は、実際に仁徳天皇の墓であったのかどうか学界でも意見が割れている。日本書紀から推定すると仁徳天皇が亡くなったのが西暦399年。「仁徳天皇陵」の築造は5世紀中頃との説が有力で、50年以上のずれが生じてしまい、年代的に見て実際には允恭(いんぎょう)天皇、もしくは安康天皇の墓ではないかと指摘する声がある。しかも、そもそも仁徳天皇は実在しなかったという説もあるのである。そのため以前は、学校の教科書も含めて一般に「仁徳天皇陵」という呼称で統一されていたのが、最近では「大山 (だいせん) 古墳」とするケースも多いと言う。

Nintoku
(今更ながらの仁徳天皇陵。やっぱりデカい!)

 最近のお気に入りの場所とは、もちろんその仁徳天皇陵ではない。そもそも中に入れない。大きい大きいと言っても、その大きさは上空からの航空写真でしか分からない。それを我が目で確かめた者など殆どいないであろう。周囲を実際に歩いてみれば、その巨大さを実感できるかもしれないが、鬱蒼と生い茂った樹木をただ延々と眺めるだけである。楽しいものではない。

 私のお気に入りの場所とは、御陵通りという通りを挟んでその仁徳天皇陵の向い側に広がる大山 (だいせん) 公園という広大な公園と、その敷地内にある日本庭園である。堺市の広域避難場所にも指定されている大山公園は、春になると桜が咲き乱れる名所の一つでもあり、日曜ともなると大勢の人で賑わうが、平日はどこもそうだが人出もまばらで、その自然溢れる公園と風情ある日本庭園をゆったりのんびり散策し、そして最後に、通りを挟んで向いの仁徳天皇陵側にあるカフェに寄り、そこでゆっくり珈琲を頂きながら、古本屋で漁ってきた本などを時間を気にせず読む、と言うのが私の最近の何よりの楽しみなのである。このままこの生活が永遠に続けば良いのにと思うほどである。

JapaneseTeaGarden
(日本庭園内の茶屋。お抹茶と茶菓子を出してくれる。ぽつんと小さく見える人物はお袋。先日、一緒に散歩した時の画像)

Cafeinside
(カフェの店内。広々として、平日は客も少く、のんびりまったりとした時間を過ごせる)

 そう言えば、長い入院生活も、激しい痛みの日々や点滴だけの日々は確かに辛かったが、別の記事にも書いた様に、食事が始まってからはその悠々自適とも言える生活にすっかり馴染み、毎日がけっこう楽しくさえあり、一刻も早く退院して社会復帰したいという欲求はそれほど強くなかったように思える。私には、だらだら出来るなら際限なくだらだらしてしまうところがある。根が相当に自堕落なんだろうと思う。私を知る人は信じないかもしれないが (私のことを精力的で活動的だと思っている人が多いようなので) 、心地良ければ、家のソファで半日何をするわけでもなくだらだら過ごすことも出来るし、しなければならない大切なことも、分かっていながらいつまでもだらだら先延ばしにすることも出来るのだ。そう、だらだら「出来る」のである。これは特技である。奇妙な言い方に聞こえるかもしれないが、生真面目で几帳面な人には自堕落な生活をして、やるべき事をだらだら先延ばしにするなどということは、そもそもどれほどやりたくても出来ない、ある種憧れの特殊「能力」らしいからである。だが、そう言われて嬉しい人はいないだろう。「そうか、これは技能であり能力であり才能なんだ。よし、この能力にもっと磨きをかけてやろう」なんて思うことの「出来る」やつが本当にいるとしたら、それは余程お目出度い、特別天然記念物なみの幸福な阿呆であり、それこそ、その幸せな特殊技能に憧れを抱いても良いぐらいである。

 話は脱線したが、いや元より本線などないが、その本線を無理矢理作ると、私はだらだらした自堕落な生活の好きな、いい加減この上ない野郎なのだが (その実力振りを知る者はほとんどいない。唯一いるとすれば20年前に別れた元妻であろう) 、そうすると、あの、狂ったように、憑かれたように、毎日夜明け近くまで飲み、水商売の女と遊びながら (私は自分で言うのも何であるが、キャバクラなんかの若い女を口説いてしばらく彼女にしてしまう天才なのである。ほら、やっぱり、いい加減この上ない野郎ですね、私は) 、しかも、その翌朝早くから夜遅くまで働いていた私は一体何だったのか?確かに「毎日夜明け近くまで飲み、水商売の女と遊び」の部分は「自堕落な」という形容も当てはまるだろうが、それを一週間ほとんど毎日繰り返し、その上ほとんど休みも取らず朝から晩まで長時間働いていたのである。褒められたものではないにしろ、これは到底「自堕落な生活」とは呼べない気がする。むしろその対極に位置するのではないだろうか。人からは「超人的なまでにタフですね」とか「その精力、敬服に価します」などとよく言われたものである (実際に敬服されていたかどうかは別問題だが) 。現在私をよく知る人のほとんどが知っているのは、この「超人的な」私なのではないかと思う。確かにそれも私がよく知る馴染みのある私自身である。昔から私には自堕落な反面、何か得体の知れない焦燥感と絶望的な情熱、というよりも衝動に駆られ、破滅に向かって突き進んで「しまいたくなる」側面がある。とは言うものの、破滅のぎりぎり一歩手前でちゃっかり踏みとどまったりするのだが、若い頃は本当にぎりぎりまで行ってしまうのである。最近はそこまで行くことも滅多になくなり、二歩か三歩手前でとどまるようになったが、それは賢明になったからではなく、単に体力が許さなくなったからである。以前のブログにも書いたことだが、私の辞書には「賢明」はないのである。しかし、年齢とともに体力が衰え、それを許さなくなったとは言え、矢張り、破滅の一歩手前まで突き進んでしまう私の「愚か振り」は健在だったと見える。なにしろ10cmもの癌を体内に密かに育てていたのだから。

 振り返ってみると、だらだら自堕落な本性と、何か得体の知れない焦燥感、この二つが調和も融和もせず、さりとて対立も敵対も葛藤もせず、私の中に常に存在し続け、それがこれまでの私の人生のすべてを彩り、その形と道筋を決定してきたように思える。しかもこの二面性には「中庸」というものがなく、それ故、常にどちらかに大きく振れながら進むことになる。繰り返すが、私の辞書には「賢明」はないのである。「中庸」とは単に真ん中という意味ではない。徳を表す儒教の中心的概念であり、簡単に言えば、一切の偏りも過不足もなく、常に変わらず調和が取れている様を表す。言い換えれば、人として生きる最高の賢明さを表す言葉であり、そんなもの私が持ち合わせている訳などないのである。いきおい生活や人生から軸となる安定感や充足感というものが失われ、常に虚ろな空洞を内に抱えているように感じられ、「意味」という宗教に冒されている私は、胡散臭いご都合主義的な何らかの意味で無理矢理その穴を充たそうとする。それが私を、即自的な私の人生そのものから引き剥がすのである。私が文学やら哲学やら数多の芸術作品に惹かれるのも、そして強く惹かれながらも自らそこに飛び込まず、いや飛び込めず、冷ややな傍観者に留まっているのも、それが自分にとって、この「無意味」という空洞を充たすだけの自己欺瞞だと、どこかでずっと気付いていたからかもしれない。

 例えば、素晴らしい小説を読んでいる時、私の心を覆っているのは「感動」ではない。やがてこの世界が終ってしまうという漠とした「寂寥感」である。素晴らしいと思える小説ほど、その最終頁に近付くにつれ、寂しくて寂しくてどうしようもない気持ちに襲われる。読み終わった時、もちろん何がしかの感動らしきものは心の中に残るのだが、それよりも、あ~読み終わってしまった、この豊かな素晴らしい世界が終わってしまったという、何とも言えない寂寥感の方が大きい。いつまでもその小説の中にいたいのである。文学的天才が織り成した、その目眩く豊穣な精神世界にいつまでも、この乾いた空っぽの貧弱な精神を浸していたいのである。そう思うこと自体が、私が自分の人生とぴったり寄り添えていない、つまり自分の人生を生き切っていない何よりの証拠であろうと思う。

 ついでながら言うと、哲学や文学、芸術というものを、自らの精神を豊かなものにしてくれる道具や手段のように語るお目出たい阿呆が時々いるが、それは大きな間違いである。哲学や文学、芸術というものは、愚か者にとって、その貧相な精神が素晴らしく豊かなものになったような幻想に浸らせてくれる麻薬なのである。生来素晴らしい豊かな精神の持ち主は、そんなものなど必要としない。哲学、文学、芸術、学問、事業、発明、冒険、何であれ、創造的なものを自らが産み出すのである。貧相な精神しか特ち合わせていない我々愚か者にとって、哲学者や文学者や芸術家というものは、我々の貧しい精紳を何らかの夢や幻想や大きな錯覚、お目出たい勘違いなどで充たしてくれる、謂わば、なくてはならない麻薬の売人なのである。

 さて、纏まりもなく、取り憑かれたように執拗にだらだらと書いてきたこの記事、どこに着地するのか、元より着地点を求めて書いている訳ではないが、これからの私の人生の道筋、その形と色合いをある程度決定する力となるものがあるとすれば、矢張り今回のこの「癌体験」であろうと思う。と書いて、私のことであるから、そう持ってくるのが、記事の締めとして一番落ち着きが良さそうだからそう書いているだけだったりするのだが、ほんの少しだけ実際にそう思うところもない訳ではない。今回のこの「ガーン!体験」、それが今後、私の生き方に何か変化をもたらしてくれるのかどうか、もたらしてくれるのであれば、それは一体どのような変化なのか、それとも結局薬局何も変わらないのか、人ごとのようであるが、実は少し楽しみにもしているのである。

 なお、余談であるが、記事中で触れた書店の古本コーナーで、学生の頃に読んでいた当時のサルトルの「嘔吐」を見つけた。この「嘔吐」という小説は、サルトルの頂点とも言うべき難解な哲学的著作「存在と無」の文学的表現とも言える小説で、当時の私がどの程度理解出来たのか、まったく自信はない。だが、当時の私が絶えず抱いていた疑問、存在の意味と無意味、人間存在の意味と無意味という哲学の大問題に (そんなこと、どうでもいい人にとっては、破れたゴミ袋ほどの価値もないであろうが) 、哲学者もどきの多い中、正真正銘本物と呼べる哲学者がその英知の限りを尽くし、全身全霊をかけて取り組んだ「本物」であるということは、青臭いとすら言える若い私にも、ひしひしと伝わってきて、それこそ一言一句その意味を自らに問い返しながら真剣に読んだ記憶がある。当時は本を真剣に読んだものである。それほどの真剣さで書物を読むということが、今ではもうすっかり無くなってしまった。友人などと書物の話になると「昨今は読む価値のある本が本当に少くなった。何を読んでも中身がすかすかのカスカスで、昔のように魂が震えるような体験をすることがなくなってしまった」と、ついついその責任を昨今の作家と書物のせいにしてしまうのだが、何のことはない、こちらの精神が劣化し、真剣に読もうとする集中力と気力、そして若い頃の感受性が衰えてしまっただけのことである。これだけは真剣に反省すべきだと、現在改めて思っているところである。

 学生の頃からバイトの収入の大半を費やして夥しい書物を買っていたが、ある時まとまった金が必要となり、そのすべてを売っ払ってしまった。人文書院のサルトル全集、大修館のヴィトゲンシュタイン全集、新潮社の倉橋由美子全作品、後の決定版の方ではない古い新潮社のカフカ全集、人文書院のロートレアモン全集、桃源社の澁澤龍彦訳マルキ・ド・サド選集、みすず書房の糞高いフッサールやメルロー・ポンティの数々の哲学書、当時一世を風靡しつつあったジャック・デリダやジル・ドゥルーズの哲学書、大好きだった高橋和巳や安部公房などの数々の単行本、等々、等々、等々、いくら金が無かったからとは云え、今にして思うとあまりにも惜しいことをしたと思う。

 あなたは倉橋由美子を知っているだろうか?高橋和巳を知っているだろうか?一時代の精神を確実に体現していたと言える彼らの作品を?漱石や太宰のことを語る輩は五万といる (私も両者とも好きな作家ではあるが) 。しかも若い人向けに、コミック本か?とも思える表紙だったりして、出版社の苦労と意図は理解できるが、矢張り失笑せざるを得ない。三島由紀夫や大江健三郎も然りである。開高健、中上健次もネームバリューはまだまだ健在だ。そして昨今は矢鱈とハルキストばかりが多くてうんざりする。だが、倉橋由美子、高橋和巳、安部公房を語る人が本当に少くなってしまった。椎名麟三など、今はもう語るどころか誰も読みもしないだろう。だったら、そうぼやく前に、お前が語れ!ですよね。ごもっとも。仰る通り。その為にも、のんびり本を読む自堕落な生活をもっともっと続ける必要がありそうである。
 
 

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明日退院 (経過報告) / 癌闘病記 (8) 

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(私の退院を祝うかのような松花堂弁当。昼食には鯛も出たし、こりゃ目出度い)

●10月08日

 夕方5時頃、担当医がふらっとやってきて「ドレン抜きましょか?」と言って、その用意をしてきたと見え、突然病室のベッドの上で抜いてしまった。そして「明日以降いつでも退院出来ますよ。日程をまた病院事務と相談して決めて下さい」と。えっ?明日? 確かに週明けとは聞いていたが、何も言いに来ないので、もう暫く様子見かなぁ、と思っていた矢先である。この人は言うことやることすべていつもサプライズである。おかげでいつも私は「えっ?あ、はい!」という反応しか出来ないが、喜びは倍増である。計算してる風でもない。こういう人なんだろうと思う。医者として少し舌足らずのようにも思えるが、こういう人は嫌いではない。

 という訳で、何事もなければ明日、9月12日に入院して28日振りの退院である。長かったようだが、あっと言う間だった。62年生きてきて人生初の大病、手術、入院。いろいろ学ぶことは多かったが、とりわけ痛感したのは矢張り人の有り難みである。この闘病記にはあまり触れなかったが、実は多くの人に心配して見舞いに来て頂いたり、励ましのメールを頂いた。今も、みんなに退院のお知らせをしたら、良かったですね!とメールが山のように返ってくる。私のようなこんないい加減な適当野郎に、本当に有り難いことである。勿体無いぐらいである。個別にもお礼はしているが、この場を借りて改めて声を大にして言いたい。
みんな、本当にありがとう!!!

 冒頭の画像にあるように、夕食に松花堂弁当風食事が出た。今夜は豪勢だねと配膳の看護師に言うと、祝日はいつもこうだとのこと。そう言えば9月17日の敬老の日もそうだった。小用を足しに廊下に出ると、大きな配膳カートにいつもとは違って松花堂弁当が並んでいたので、看護師に聞くと「今日は敬老の日で、特別なんです」と言っていた。私のいる病棟は外科病棟なのだが、実質的にガンの外科手術病棟で、患者のほとんどは70以上の爺ぃ婆ぁばかりなので、なるほど敬老なんだなと思っていたが、単に祝日だったからなのである。あいにく私は点滴絶食中だったので、その時は食べられなかったが、てっきり敬老を祝ってのものだと思っていたので、絶食中でなければ私にも出たのかどうかと考えたものである。とても美味しそうであったが、出たら出たで少し複雑な思いをしたであろう。

・朝食…胚芽ロールパン60g、イチゴジャム、コーンとグリーンピースとキャベツと人参とハムのスープ煮、牛乳。
・昼食…全粥200g、鯛塩焼き大根おろし付き、豚じゃが (人参と)、胡瓜と白菜のゆかり和え。
・夕食…松花堂弁当、全粥200g、鮭照焼き大根おろし付き、里芋と高野豆腐とはんペんの炊き合わせ、出し巻き卵、人参はと春菊のお浸し、胡瓜もみ、松茸麩のお吸い物、抹茶ゼリー。

●10月07日
・朝食…ブリオッシュパン50g、オレンジマーマレード、カリフラワーとブロッコリーとハムの温野菜サラダ、牛乳。
・昼食…全粥200g、白身魚の塩焼き、人参と里芋の煮物、カルピスゼリー。
・夕食…全粥200g、煮豚、豆腐と人参餡かけ風、南瓜と胡瓜とハムのサラダ、白菜の漬物。

●10月06日
・朝食…ロールパン (60g)、リンゴジャム、牛乳、リンゴゼリー。
・昼食…全粥200g、木綿豆腐とすずきの味噌煮、人参と茄子の煮付け、かき卵スープ。
・夕食…全粥200g、牛スライス治部煮 (とメニュー表に書いてあった。何だか良く分からない)、人参とはんぺんと小松菜の煮浸し、白菜の漬物、プリン。

快楽さえなければ、人生はきっと耐えうるものだろう / 癌闘病記 (7) 

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(病室の窓からの眺め)

 病院内にドトールが入っていて、息抜きと読書、またはこのブログを書くのにこれまで二度ほど入ったことがある。その時はどちらもリンゴジュースを飲んだのだが、帰りに「当店限定、カフェインレスコーヒー」とカウンターのメニューにあるのに気付いた。
 何日か前に看護師に「ドトール行ってもいいかな?」と尋ねたところ
「うーん、軽いジュースぐらいなら」
「コーヒーは?」
「刺激物だからねぇ。まだやめときましょう」と言われていた。
 そして今朝、ドクターの回診時に
「ドトールのメニューにカフェインレスコーヒーがあったんですけど、カフェインレスならいいですよね?」と探りを入れてみたところ、
「カフェインレスじゃなくてもいいですよ」とあっさり返ってきた。
「えっ?! いいんですか?」
「近々退院だし、コーヒー飲むでしょ?一杯ぐらいならカフェインレスじゃなくても全く問題ないですよ」「えっ?退院?」「ええ、来週、週明けの月曜か火曜には考えています。」

 なぁ~んだ、そうだったんだぁー!コーヒーも退院も。なら早く言ってくれよ、早く!
という訳で早速、カフェイン“有り”コーヒーを飲んだ。入院中どころか、体調のせいで8月末頃から胃がコーヒーを受け付けなくなっていたので、実に40日振り近くになる。ゆっくりカップを口に近付け、少し啜って熱さを確かめ、それからワインのように口に含み、口の中でまったり苦い黒い液体をゆっくり転がす。あ~、コーヒーの苦さってこんなだったんだ。ブラックで飲んでいるが、気のせいか、ごく僅かほんのり甘みも感じる。コーヒーに関する、ある有名な言葉を思い出す。ご存知の方も多いであろう。

「珈琲、それは悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして愛のように甘い」 by Talleyrand (タレーラン)

シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord) 。1754年2月13日 (2月2日説もある) 生まれ、1838年5月17日没。フランス革命から、第一帝政、復古王政、七月王政に及ぶまで、政治家、外交官として務める。ウィーン会議ではブルボン家代表となり、以後も首相、外相、大使として活躍し、長期にわたってフランス政治に君臨する。日本では一般に「タレーラン」と略される。(Wikipedia)

このタレーランという人物が非常に興味深く面白い。その為人とエピソードをWikipedia から少し拾ってみると…

・有名な画家ドラクロクは、その容貌容姿の酷似やフランス政府の保護などから、タレーランの息子ではないかと言われている。
   delacroix2
(ドラクロアと言えばこれ「民衆を導く自由の女神」。1830年に起きたフランス七月革命に応えて描かれた)
・「タレーランは、金儲けに精を出していない時は、陰謀を企んでいる」と酷評されたが、一方で敗戦国が戦勝国に要求を呑ませたことで、敏腕政治家・外交家としても評価が高い。
・ナポレオンとタレーランは、互いの天才的な才能を認めあったが、必ずしも親しい関係ではなかった。タレーランの老獪な政治手法をナポレオンは「絹の靴下の中の糞」とこき下ろすこともあった。
・タレーランは、変節の政治家として嫌われることも多いが、名外交官としてオーストリアのメッテルニヒと並び外交の天才と称され、今も評価が高い。
・タレーランは、長年対立関係にあったイギリスとフランスの同盟関係を固め、19世紀と20世紀の200年続く両国の協調と同盟の基礎を築いた。両国の同盟関係により後の第一次世界大戦と第二次世界大戦のフランスを勝利に導いたのはタレーランの外交の遺産であった。
・タレーランが提案したメートル法が世界の多くの国で度量衡の基準として広く用いられている。
・現在でも、欧米では交渉の場で卓越したものの代名詞として使われる。
・美食家として知られ、後にフランス料理の発展に大きく貢献し「国王のシェフかつシェフの帝王」と称されたアントナン・カレームをシェフとして雇い、ヴァランセ城に居住させ、重複のない、季節の食材のみを使用した1年間のメニューを作ることを命じた。ウィーン会議の間もたびたび夕食会を主催し、そこで出された料理は出席者の評判をさらい、カレームの名をヨーロッパ中に広げるきっかけとなった。
・あるとき、タレーランは2匹の大きなヒラメを入手した。これは、当時としては大富豪でもなければ不可能なことだった。さっそく客たちにふるまうことにしたが、しかし2匹同時に食卓に出せば自慢と受け取られ、反発されることも予想される。そこでタレーランはあらかじめ使用人に指示して、1匹目のヒラメ料理を客たちの目前でわざと皿から落とさせて台無しにしてしまった。楽しみにしていたヒラメ料理を食べ損ねて客たちが落胆した所に、タレーランはすかさず2匹目のヒラメ料理を持って来させたため、客たちは大いに歓喜したと言われる。

また、彼は、ピリッと毒のきいた、次のような味わい深い言葉も残している。

「快楽さえなければ、人生はきっと耐えうるものだろう。」
「誹謗中傷よりも酷いことがひとつある。それは真実だ。」
「言葉が人間に与えられたのは、考えていることを隠すためである。」

特に一つ目の金言。「人生はきっと耐えられないものになるだろう」ではないのである。「耐えうる」なのだ。深い。言い得て妙である。私の人生そのものではないか。

点滴のこと (経過報告) / 癌闘病記 (6) 

hathanger (じゃなくて!)

 3日に点滴が外れて以来、非常に快適である。何しろ、館内を移動するにもトイレをするにも何をするにも常に、何と呼ぶのか、下にキャスターの4つか5つ付いた、あの点滴のビニール袋を吊るす背の高い帽子掛けのスタンドのようなあれ、後で看護師さんに尋ねたら支柱棒と呼んでるらしいのだが、その支柱棒をガラガラと連れ歩かねばならなかったのである。鬱陶しいったらありゃしない。しかしよく考えてみればそう無下にもできない。むしろ感謝しなければならないだろう。入院してからほぼ三週間、水分以外何も口に出来ない私をずっと支えてきたのだ。思えば不思議な液体である。奇跡の液体と呼んでもいいだろう。

 点滴には、腕や脚などの皮下を走る静脈に留置する末梢静脈路と、中心静脈路と呼ばれ、大腿静脈、内頚静脈、鎖骨下静脈などから挿入し、上大静脈または下大静脈の中心静脈に留置されるものと二種類ある。末梢静脈路は手軽に確保できるため頻繁に使用されるが、浸透圧の高い輸液を行うと血管炎を起こしてしまうため、高カロリー輸液には適さず、長期間使用すればどんどん痩せていってしまう。それに対して、上大静脈または下大静脈に留置するルートは、大静脈が体内で最も太く血液量が多い静脈であり、高濃度の薬剤を投与することが可能であり、また血管外への逸脱を起こしにくく確実性の高い投与経路であるため、長期にわたる絶食が必要な場合や、消耗性の病気でカロリーが必要な場合に用いられたり、一部の抗がん剤など血管炎をきたしやすい薬剤の投与に用いられる。またカテーテルを通して中心静脈の血圧(中心静脈圧)を測定することが可能であり、体液量の増減や鬱血性心不全の程度を把握するのにも役立つ。

 私の場合は前腕への点滴であったので勿論、末梢静脈路であり、ソルデム3A (500ml) というのを一日4パック、23日間ずっと体に流し込んでいた。ソルデム3A (500ml) は熱量が86kcalしかなく、計算上一日344kcalにしかならない (その他病院支給の栄養補助ドリンクは飲んでいたが)。当然のことながらどんどん痩せる。私は、去年の最盛期には65kgはあったように思う。今年の夏になって体調がどんどん悪くなっていった頃でも53~4kg、極度の貧血と疲労感と痛みで苦しんでいた入院直前でも52kgはあったように思う。それが今や、驚くなかれ、48kgしかないのである。ところが不思議なことに、ここ半年で今が最も体調が良いのである。勿論、ここしばらく私を苦しめてきたあの忌まわしい巨大な腫瘍がなくなったから当然であるが、それにしてもまさに点滴さまさまである。

 思えば若い頃、私は痩身だった。20代の前半には今と同じ48kgしかないこともあった。30代に入っても52kg前後だったような記憶がある。当時、別れた元妻のジーンズが楽々履けて「私のデニムが入っちゃうなんてほんとに失礼な人ね」とよく彼女に言われたものである。その当時のズボンなどはさすがに残っていないが、ここ10年ほど、どんどん腰回りがキツくなって入らなくなってきたパンツ類が多くあり、処分しようかどうしようか悩んでいたところだが、ひょっとしてすべて難なく入るのではなかろうか?もしそうだとしたら、これはしめた事だ。怪我の功名ならぬ、癌の功名と言ったところか。

●10月05日
・朝食…イチゴジャム付きロールパン60g、キャベツと人参とベーコンのスープ煮、牛乳200cc。
・昼食…全粥200g、鮭の蒸焼き、じゃがいも二切れ、大根と人参と鶏肉の味噌煮、キャベツのマヨネーズ和え。
・全粥200g、空也蒸し(これは旨かった)、蒸し鶏、茄子と人参の和えもの、ハクサイの浅漬け。

●10月04日
・朝食…ロールパン (60g) オレンジマーマレード付き、牛乳 (200cc)、リンゴゼリー。
・昼食…全粥200g、タイ味噌少量、鶏の照り蒸焼き90g、茄子と胡瓜と人参のお浸し、サイダーゼリー。
・夕食…全粥200g、白身魚の煮物、大根と人参と錦糸卵のゴマ和え、豆腐のお味噌汁。

経過報告 / 癌闘病記 (5) 

●10月03曰 昨日の夕食に引き続き、朝昼夕とも乳製品なしの普通の入院食。昼過ぎから、それまで綺麗だったドレン管に微量の白濁したものが混じっている。矢張り脂肪制限していないので乳糜が少し洩れ出しているのか?ただ、夜に入ってもそれはドレン管の同じ位置にとどまっていて、増えている気配はまったくない。ということは浸出液自体もほとんど止まったということか?問題は、ヨーグルトその他の乳製品も再開される明日だ。この乳糜瘻の件以外は回復は至って順調なのだが。今朝、食事をしっかり取れているということで点滴も外れた。

・朝食…リンゴジャム付きロールパン1個、人参と大根とインゲン豆の温野菜サラダ、リンゴジュース。
・昼食…全粥200g、肉じゃが (これは牛肉もしっかりあり、旨かった!)、けんちん厚焼き卵、にんじんとキャベツのゴママヨネーズあえサラダ。
・夕食…全粥200g、肉焼売5個、小松菜と人参とはんぺんの煮浸し、豆腐ゼリー。

●10月02日 朝昼の食事は低脂肪食だったが、夕食から特に脂肪を制限していない普通の入院食に切り替わる。ただし乳製品はつかない。夕食後3時間ほど経過しているが乳糜は出ていない。

・朝食…全粥300g、青梗菜とはんぺんの煮浸し、梅干練り物少量、佃煮錬り物少量、桃ゼリー、オレンジジュース。
・昼食…かやくうどん (人参一切れ、鶏肉二切れ)、自身魚の黄身焼 35g、ブロッコリー二切れ、黒蜜ゼリー、栄養補助ドリンク。
・全粥200g、焼鮭、人参とキャベツの味噌焼、煮奴、大根と胡瓜のサラダ。

人生は一度切りの夢、幻 / 癌闘病記 (4) 

Brazil
(テリー・ギリアム監督「未来世紀ブラジル」最後の場面)

 大腸に10cm大のかなり大きな腫瘍が見つかってちょうど一ヶ月。12日に入院。18日に手術。そしてまだ現在入院生活を続けているわけだが、その間の経緯は癌闘病記に書いている通りである。その際私は、あまりセンチメンタルになったり、癌だ癌だ!と大袈裟に騒ぎたてたりせずに、事実に則して出来るだけ淡々と記録するか、あるいは「我食べたい、故に我あり」のように少しおちゃらけたり軽い乗りの考察を加えるにとどめ、あまり深刻にならないようにしている。特に「生きているって、それだけで素晴らしい!」的なお目出たいNHK的生命礼賛は控えたいと思っている。世の中にはもっともっと苦しい想いをしている人が五万といるわけであり、これしきのことであまりみっともない真似は晒したくないからである。ただし私にも人並みの不安がない訳ではない。

 10cmの腫瘍である (実際に摘出したK大の執刀医は、ソフトボールぐらいありましたよと、片手でソフトボールを握っている仕草をした。実際に見せられた母親は「こんなぐらい」と言って小さな手の平をいっぱいに広げて見せた)。最初のCT検査でその事実を告げられたU病院では、これだけ大きいと悪性であるのはまず間違いないと言われ、少くともステージIやⅡでは絶対にないと断言した。その時まだ愚かにも事態を甘く見、手術入院となった場合の仕事先にかかる迷惑だけを危惧していた私が「やっぱり切らないと駄目ですか?通院治療なんて無理ですよね?」と尋ねると、医師は「一体こいつ何考えてんだ?!」と言わんばかりの侮蔑的とも言える訝しげな表情を向けながら (U病院じゃなくて良かった)「手術出来るかどうかすらまだ分かりません」と言った。つまりステージⅣまたは末期癌の可能性も有りということである。その時初めて事態が相当深刻であることを悟った私は、文字通り目の前がすうっと暗くなるのを感じた。あ~これで人生終ったかも、と。

 結果的にK大病院で手術を無事に終え、現在に至るわけであるが、癌のステージはまだはっきりと告げられていない。私の場合、闘病記(1)で述べたように、大腸内視鏡カメラが痛みのため患部にまで達せず、その時病巣を少し切り取って病理学検査に回すことが出来なかったため、その様子を兼ねての、取り敢えずの開腹手術であり、摘出した10cm大の腫瘍の病理学検査はその後に回された。血液検査、CT造影剤なし、CT造影剤あり、レントゲン、エコーと体の隅々まで検査し、加えて腹を開いた際、患部とその週辺部を見ているわけだが、今のところどうやら、肺、肝臓、膵臓、腎臓などへの目立った転移はなさそうだと言われ、ひとまずほっとしている。だが、まだ明確な言葉による説明はなく、先の腫瘍の病理学検査の結果も含め、ステージの宣告とプログノーシス、いわゆる予後の説明は退院時か、その後の最初の外来診察の時であろうと思われる。

 一般に大腸癌のステージは0期からⅣ期までの5段階に分類され、その判定は ①癌が大腸の壁の中にどの程度深く入り込んでいるか (深達度)、②周辺組織への広がりの程度 (浸潤度)、③リンパ節や肝臓・肺などの遠隔臓器への転移があるかどうかの三要素によって決められる。もう少し詳しく書くと (日本人二人に一人は癌になる。今後のあなたの参考のためにも) ・・・

ステージ0:癌が粘膜の中にとどまっている
ステージⅠ: 癌が大腸の壁 (固有筋層) にとどまっている
ステージⅡ: 癌が大腸の壁 (固有筋層) の外にまで浸潤している
ステージⅢa:3ヶ所までのリンパ節転移がある
ステージⅢb:リンパ節転移が4ヶ所以上に及ぶ
ステージⅣ:遠隔転移 (肝転移、肺転移) または腹膜播種がある

 私の場合、ステージⅠかⅡはまずないので、問題はⅢかⅣのどちらなのかということである。というのもステージⅢとⅣとでは、その5年相対生存率に大きな差があるからである。大腸の部位にもよるがステージⅢでは、5年生存率は75%~85%であるのに対し、ステージⅣでは15%~20%にすぎないのだ。もちろんそれはあくまでも確率の問題であり、特定の個人に限って考えた場合どうなるかはまったく未知数であり、ステージⅣや末期癌宣告された人の中にも、その後何年も生き延びたり、または完全に克服したと言える状態にまで復帰した人も多くいる。とは言うものも、それはあくまでも確率的に見て稀な事例であり、私がそうなる可能性は矢張り小さいのだ。ま、私の不安も分かって頂けるだろうと思う。

 と、ここまで書いてきて、実はそれほど不安に感じていないことに今、気付いた。不安?えっ?それほど不安じゃないんすけど、俺、って感じ。不安に思える要素を上に書き出してみて、客観的になり冷静になったからであろうか?どうもそうでもないような気がする。そもそも第一段落の最後に「私にも人並みの不安がない訳ではない」と書いた時の気分を今振り返ってみたのだが、そんなに不安を感じていたわけでもなさそうなのだ。そう書いた方が文全体がうまく纏まりそうだから書いたまでで、またしても筆の軽いノリに乗せて書いちゃったような気もする。そう、大切なのはその場のノリ、ノリ。それにしても何といい加減な奴なんだ、アンタって男は。てへへ。

 そもそもこのカテゴリーのタイトルにしても「癌闘病記」にした方がそれなりに格好がつくからそうしたまでで、当の本人は闘っている気持ちなどさらさらない。今さら何と闘うの?という感じ。こんなもの、成るべくしてなったのだから、今後も成るようにしかならんだろうし、今さら足掻いたところでどうなるものでもない。だからと言ってもちろん、どうなってもいい訳ではなく、一刻も早く回復したい気持ちは非常に強い。だが、それは先のこと。不透明な先のことで、この今を台無しにしたくないという気持ちの方が強い。手術台の上に寝かされ、これからまさに麻酔をかけられようとしている時「私はこれから死ぬんだ」と自分に言い聞かせた。もしこのまま目覚めなくても、それは自分にも分からないこと。そして、もし目覚めたら、それは儲けもんの命。だから、これから自分は死ぬんだと強く言い聞かせた。そして次の瞬間目覚めた。何と有難いことか!本当に、誰か奇特な人から命を貰ったような気がした。これは続対に無駄にしてはいけない、大切に大切にしなくちゃいけない、と。これからは一瞬一瞬を大切に生きよう、生きている今をしっかり自覚し十分に味わい尽くしながら生きようと。

 おっといけない!私は今、第一段落で自らに禁じた「おセンチ」で大袈裟でNHK的お目出たい野郎になってません?うーん、困ったことだ・・。

 実は、こんなに毎日をのんびり過ごし、何もしなくていい「今」を楽しんだのは本当に久し振りのことなのだ。退院してその後再発はしないのか、とか、またいったん回復しても再発予防のための通院やらでちゃんと職場復帰できるのか、などと若干の不安はあるものの、その不安に、現在のこの伸び伸びと寛いだ気持ちの邪魔をさせたくないのだ。それほどまでに、この今を楽しんじゃってる自分がいる。しかも、大病も入院も大きな手術も私は生まれて初めてのことであり、そのどれもが自分にとって物凄く新鮮であり、妙なことに、それを体験することによってやっと一人前の人間になったような気すらするのである。点滴やらドレン管やらいろんな管を体に繋げてはいるが、また様々な行動の制約はあるものの、毎日毎日好きな時間に寝て、好きな本を読んで、好きな音楽を聴いて (Appleのミュージックというのに月780円で契約していると、どんな音楽でも聴き放題、本もAmazonで洋書でも何でも好きな時にダウンロード出来るし、何と便利な時代なのだ、この時代は!)、食事は質素だが物凄く美味しく感じるし、何よりも、可愛い看護師が身の回りの世話はおろか、体を後ろからぴたっとくっつけて洗髪までしてくれる。このK大病院には何故か若い可愛い看護師が多い。入院してから、もうかれこれ20日にもなる。当然のことながら、みんなともけっこう親しくなり、私が予備校の講師であることを知っている者も多く、私はけっこう人気者なのである。何も言うことはないではないか。

 と、ここまで書いてきて、またしても大きな疑念が生じる。
「ん?ちょっと待てよ。これってひょっとして覚醒前のマトリックス状態じゃん?!」

 ひょっとしてあの時、私は手術台の上に横になって麻酔により無意識になり、その後、手術が失敗するか何かして、そのまま植物人間にでもなってしまっているのでは?そして、目覚めたと思ったのは実は単なる夢で、覚醒前のマトリックスのように、はたまたテリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」やジュード・ロウ主演、ミゲル・サポチニク監督の「レポゼッション・メン」(これは知る人は少ないが非常にいい映画である。隠れた佳作と言っていい。是非一度ご覧あれ) の最後のように、この現在の充実した入院生活はすべて夢、幻なのではないか?もしそうだとすると、それは非常に怖いことだが、それをどう否定出来よう?しかも、もっと怖いのは、それならそれでいいではないかと思ってしまうこの自分である。人生とは一度切りの夢、幻。

経過報告 / 癌闘病記 (3) 

matsukaze
松風焼 (画像は実際の食事の写真ではありません。ネットから一番近い感じのものを取りました。あしからず)

●10月1日 朝から待ちに待った食事が開始される。知らされていなかったので、ちょっとしたサプライズで喜びも倍増である。まさかそれを狙っての突然ではないだろうが。後で聞くと、朝早く6時頃採血した結果と週末の経過、ドレン廃液の様子を見ての朝早くのドクターの判断だったらしい。とは言っても徹底的な低脂肪食なので、また乳糜が出る可能性はきわめて薄いのだが・・。過去2回とも廃液が真っ白になったのは、ヨーグルトやプリン、または脂肪制限をしていない普通の入院食の後だったので、問題はその後であるが、まぁ今から心配しても仕方ないだろう。とにかく食事が再開されたのは非常に喜ばしいことである。現在、夕食後3~4時間ほど経ったが、今のところ乳糜は出ていない。一安心である。

・朝食…全粥300g (全粥とは、米の量に対して水量が5倍の粥のこと。ちなみに5分粥は10倍、3分粥は20倍の水量で炊いた粥のこと。哲学者の名前はいっぱい知ってても、こんなことも私は知らなかったのである)、キャベツと少量の細切り人参のスープ煮、梅干しの練り物少量、佃煮の練り物少量、桃ゼリー、オレンジジュース。
・昼食…全粥300g、たぶん鶏ひき肉と豆腐の松風焼二切れ、南瓜煮付け、柿なます、栄養補助ドリンク。
・夕食…全粥300g、友禅豆腐、卵とじ煮、胡瓜と何かの漬物少量。

我食べたい、故に我あり / 癌闘病記 (2) 

eatingSushi
(血まみれになって寿司を喰う、いや寿司に喰われる女)

●9月28日 前日に続き点滴だけの絶食生活。一体いつまで続くのか? 前回乳糜液が透明な漿液に戻り、安心して食事を開始してすぐにリンパ瘻を再発したので、今回ドクターは慎重に慎重を期しているのであろう。思えば12日に入院して以来、25日と26日の2回の質素な食事以外、水と茶と栄養補助ドリンクを除いて16日間何も口にしていない。その2回の食事はまともな食事とは言えないほど質素で貧相なものだったが、その美味しいことと言ったら!まさに beyond description 筆舌に尽くし難いものであった。単に食べるということがこれほどまでに幸福な体験であったとは!その2回の至福の食事をへたに経験してしまったばかりに、私の食への渇望は今や増すばかりである。

 今回、緊急入院で取るものも取り敢えず入院した訳だが、後日、このiPadも含めて、母親に部屋にまで必要なものを取りに行ってもらった。その際、日項忙しくてじっくり読めなかった洋書の小説やら哲学書などを数冊持ってきてもらった。癌の闘病生活と言えば生死を熟考するいい機会、そりゃ文学と哲学だろうという浅はかな軽い乗りである。小説の方はその展開につられてある程度読み進められるのだが、哲学書の方はと言えば、「なぜ世界は存在しないのか」という逆説的なタイトルの、新実在論というポストモダン哲学の一つらしいのだが、これがまったく集中できない。

 読もうとすればするほど、文章に集中しようとすればするほど、逆にまったく哲学的でない一つの想念が頭をもたげ、私の頭はそれでいっぱいになり、やがてそれが私全体を呑み込んでしまうのである。そう、疑わしいすべてを捨象した果てに残る唯一否定し得ない「この思考する主体」、それを唯一確かな依り所としたデカル卜のように、唯一確実な実体とも呼べるほどリアルな一つの想念。その前では、それ以外の想念、概念、思念などはすべて空疎な虚妄とすら言えるただ一つの想念、それは「食べたい!とにかく何か食べたい!」なのである。「我思う、故に我あり」ではない。まさしく「我食べたい、故に我あり」である。「生」「生きるこの私」の原点はまず食べることにある。それ以外の思念、思考、思想は「食」が確保されて初めて存在する空虚な実体のない幻のようなものにすぎない。まず何でもいいから食べるという生物学的な側面が、人間が人間的であるための条件の基底を支えているのである。そうであれば哲学などというものは単に、食を満たされた独善的な知識人の高踏で優雅な思考の遊びにすぎないのではないか?日本の国境の内側にいればなかなか見えてこないが、世界には、人間が人間的であるための基底を支えるその「食」ということすら十分に成立し得ない人々が驚くほど多くいる。だとすれば、人間を人間的たらしめるためには、先ずは政治学、経済学の方が哲学などよりよほど重要であるのは言を俟たないことであろう。(必ずしも現状はそうでないことが残念であるが。)

 さすれば、哲学の意義などというものは一体どこにあるのであろう?矢張り先ほども述べたように、それは食を満たされた一部の人間の贅沢な思考の戯れにすぎないのか?今の私にはどうもそうとしか思えない。だからと言って、学生の頃より古今の哲学者達の哲学書に慣れ親しんできた私にとって (習得してきたとは言っていない。あくまでも「慣れ親しんできた」である) 、その哲学的思考の遊びを無意味なものだと切って捨てることは到底出来ない。思考の遊びだけではなく「遊び」そのものが、人間性の本質の一つであることは言うまでもないことだからである。歴史家ホイジンガ曰く、我々はホモ・ルーデンスなのである。ただ現在は、その重要性が食への渇望の前に霞んで見えるだけなのかもしれない。

 とにかく何か食べたい!矢張り寿司だ、寿司がいい。しかも、高級で贅沢なものでなくてもいいから、スーパーや回転寿司の寿司ではなく、寿司職人の握った寿司が。人肌の、ふっくらとした銀シャリに、しっとりと艶のある新鮮なネタ・・・。口の中でふわりと広がるあの感触。結局そこ?何とも凡庸な展開であるが、まぁいつものことだ。凡庸な精神には所詮、凡庸な思想しか宿らない。なら Again!「生」の原点は「食」にあり!流石にあまりに凡庸すぎて我ながら呆れ返るが致し方ない。食べたい!これが現在の唯一確かな私の “コギト” なのだ。翻って言えば、「食べたい!」そう強く願える間は生への執着が強いということであり、それが癌闘病の先ず何よりも重要な条件なのである。食べたいと思えなくなれば、人間、the end、おしまいである。(※コギトとはラテン語で「我思う」の意。デカルトの「我思う、故に我あり」はラテン語で “Cogito ergo sum”「コギト・エルゴ・スム」)

 ある看護師に、とにかく少しでも早く食事を再開したいと訴えると、ドクターはこの土日は休みで、ドレンの廃液の状態を見ながら食事再開の判断を下すのは、早くても週明けになるだろうとのこと。最低でもあと二日この状態が続く。考えただけでも気が遠くなりそうである。寿司が喰いたい!いや、以前、寿司の怪物が人間を襲うという、井口昇という監督の「デッド寿司」という映画があったが、せめて食べることが叶わぬなら、いっそのこと寿司に喰われて死んだら本望であろうか?などと下らないことを考えながらこの二日間やり過ごすしか、どうやら仕方無さそうである。「我食べたい、故に我あり」。

※冒頭の写真は、その井口昇監督の「デッド寿司」のワンシーン。とは言っても、私はその予告編しか見たことがないのだが。

Real Beginning of the End / 癌闘病記 (1) 

angelvsdeath

 前々回、長い終わりの始まりなどというような記事を書いた。もちろん人は誰しも、この世に生を授けられたまさにその瞬間から、長いにせよ短いにせよ、その生を終わらせる皮肉な道を歩み始めることになるのだが、その旅は必ずしも意識的なものではない。前々回書いたのは、そのこれまでの道程を自分なりに振り返り、意味と形を与えられるものにはそれらを与え、これからの旅をより意識的にじっくり味わいたいといった気持ちを述べたぐらいのものにすぎない。ところが私の運命の神はまたしても親切なのか意地悪なのか、その私の言葉に迫真の意味と深みを与えて下さった。これは本当に運命の神に感謝すべきなのかどうか?

 もうタイトルからお察しのことであろう。癌に罹った。この癌闘病記では、自らの備忘録としてその経緯を、時には余計な戯れ事にもお付き合い頂きながら、書き留めていきたいと思う。

 これまでの経過(上の方が最新です)を記憶を辿りながら簡単に記すと・・・

●9月27日 夜には乳糜液は止まり、ドレンは再び透明の漿液に戻り、それ自体も量が減ってくる。
●9月26日 朝の食事は七分粥(梅干し練り物少々)と炒り卵をほんの少し、ヤクルトジョア。10時に薄味の具のない茶碗蒸し。昼はワカメとかまぼこ入りうどんハーフサイズ。杏仁豆腐風豆腐ゼリー。普通のヤクルト。その後、2時過ぎにリンパ瘻再発。再び絶食治療に戻る。
●9月25日 未明にはドレンの液が乳糜色から透明な漿液にもどる。夜に試験的に食事を開始。五分粥。人参とブロッコリーを一切れずつ、親指ほどの小さな照り焼きチキン。ナスのクリーム煮を少々。
●9月24日 朝からヨーグルト、杏仁豆腐、プリンなどを食べる。その後、昼過ぎよりリンパ瘻(ろう)または乳糜(にゅうび)瘻という合併症を発症し、点滴だけの絶食に戻る。乳糜とは脂肪あるいは遊離脂肪酸が乳化しリンパに混ざった乳白色の体液であり、乳糜瘻とはその乳糜がリンパ管から漏れ出てきてしまうことを指す(Wikipedia)。通常、腸の手術後、不要な浸出液を外に排出するドレン管を腹部に刺していて、大抵は漿液と呼ばれる透明な体液が透明なビニールのドレン管を流れているのだが、私の場合、それが突然真っ白になったのである。今までずっとそれは透明であり、それで正常だと言われて来たので、それを見た途端、当然のことながら私の頭も真っ白になった。何じゃこりゃ?!
●9月23日 痛みがかなり和らいでくる。最初の流動食の許可が下り、朝からプリン、ヨーグルトなどを食べる。
●9月20~22日 激しい痛みが襲う。痛みの感覚というのは人により大きく異なり、また年齢によっても変わり、通例若いほど痛みは大きいらしいのだが(ここでは62才の私は十分苦い部類に入るらしい。なるほどこのガン病棟、辺りを見回せば患者のほとんどが70、80以上の人ばかりである)、これまで大病を患ったことがなく、大きな怪我も手術も入院も一度も経験したことのなかった私にとって(それはそれで非常に幸福なことであるのだが)、これは人生最大の苦痛であった。
●9月18日 開腹手術。執刀医はY先生。手術自体は成功。経過は頗る良好らしい。
●9月16日 輸血、何らかの検査。
●9月15日 輸血、何らかの検査。
●9月14日 輸血、何らかの検査。
●9月12日 諸々の検査の為、K大病院来院。貧血(赤血球値が苦い人の半分ほどしかないと言われる)による衰弱がひどく、そのまま緊急入院。絶食点滴開始。
●9月10日 K大病院来院。大腸内視鏡検査。あまりに痛く、内視鏡が患部にまで達せず。
●9月6日 K大病院来院。外来はT先生。諸々検査を受ける。
●9月3日 中規模のU病院を訪ねる。U病院は8年前、母親が大腸癌を患った際、手術を実行し、その後の再発もなくほぼ完治させた、私に取って好感度最大の病院である。そのU病院で即日CT検査を行い、大腸(正確には右脇腹を下から上に走る上行結腸)に約10cm大の腫瘍が発見される。まさしくガーン!である。だがU病院は8年前とは違い外科医が少なくなっており、また、これほどの腫瘍はもっと大きな大学病院で治療を受けた方が良いと言われ、その場でK大病院に紹介状を書いてもらう。
●8月最終週 疲労度がさらに大きくなり、腹部の痛みも増し、早退、欠勤をするようになる。
●8月中旬~下旬 疲労度が増し、はっきり腹部右脇腹辺りに違和感、不快感と軽い痛みを感じ始め、触って大きなシコリを認めるようになる。
●2018年に入り、いつ頃からか、例年になく疲労感を感じるようになる。また、これまで最大65kgあった体重も60kgを割り始める。しかし疲労感に関しては例年よりも仕事が増えており、または年齢のせいでもあると、そして体重減も昨年以来酒量をぐっと減らすようになったせいであると自分勝手に思い込んでいた、いや思い込もおうとしていた。とにかく仕事を休むわけにいかなかった。今思うと完全なレッドサイン点灯であるが、体重が減ったのはいいことだとばかりに、超多忙な日々をひたすら気力と高カロリーの過食で乗り切る毎日であった。(その体重は現在50kgしかない。)

※冒頭の絵は、頻死の重病人の腹の上でカードに興じる天使と死神。作者不詳。さて、どちらが勝つか? 天使の悩む表情から、どうやら死神優勢のように私には窺えるのだが・・・。

Triangle 



Triangle
Joe Bonner (piano), Clint Houston (bass), Billy Hart (drums)
1975年録音

 マンションとは名ばかりの、6畳に狭いキッチンがあるだけのアパートの一室、窓際に置かれたベッドに私はTシャツにパンツ一枚という姿で横になり微睡んでいた。暑い夏の昼下がりであったが、開け放した窓からは風が時折りレースのカーテンをわずかに揺らし、私の頬を柔らかく撫でていった。その蒸し暑く重い、だが不快ではない空気と一体となった半覚醒状態の意識が、その微睡みの心地よさとは異なる、こそばゆいような微かな心地よさを捉え、私は目覚めた。ぼんやりとその方向に目をやると、ベッドに横になった私の足元に綾(あや)が座り込み何やらしていた。私の足の爪にマニキュアを塗っていたのである。こそばゆい心地よい感覚の源はそれだった。

「何してるんだよ?」
「だって退屈なんだもん」
 そう言って悪戯っぽく笑えば可愛いところであるが、そうせずにぶっきら棒に言うのが綾であった。
「昼休み葡萄屋に行ったらいなくって、それで部屋だと思って一緒にランチしよと思って帰ってきたら寝てるし」

 当時、私は二十一か二十二。綾も同じ年であった。その頃私は大学に自宅から通えるにもかかわらず、親父のことが嫌いで家を出てしまい、住み込みで新聞配達をしたり、アルバイトをしながら、臭い汚い共同トイレの安アパートを借りて暮らしたりしていた。その内、いろんなことが面倒臭くなり、大学の授業にも碌すっぽ出ず、仕事もせず毎日ぶらぶら、今では死語であるが、プー太郎になり下がり、挙句の果てに女のところに転がり込んで半ばヒモ同然の暮らしをしていた。というより、そうやって毎日をやり過ごしていた。そして、その女が綾であった。

 葡萄屋というのは、綾のアパートのすぐ近くにあり、彼女がアルバイトで店員をしていたブティックのすぐ向かいにある珈琲専門店であった。そこはマスターが大のジャズ好きで、膨大な数のレコードをカウンターの背後に並べ、その時の気分でそのどれかを絶えずプレイヤーにかけて流していた。私は当時その店の常連客の一人であった。常連と言っても、店にとっては、金もなくコーヒー1杯で長時間カウンターに居座り、ジャズ談義やら哲学的で観念的な青臭い屁理屈をマスター相手に並べ立てたり、暇に飽かしてはウエイトレスにちょっかいをかける、あまり儲けにならない好ましからぬ客であったかもしれない。

「その、ろくでなしっぽいところ、好きよ」
「ろくでなしってなんだよ」
「ろくでなしじゃないの。ろくでなしっぽいの」

 ろくでなしではなくて、ろくでなしっぽい。そんな、謎めいたことを口にしながら、綾は獣のようにしなやかにベッドによじ登り、寝そべっている私の上に四つん這いにまたがる。そして汗の滴を一滴二滴、私の頬や首筋に垂らしながら、やはり水辺の水を飲む獣のように肩を落とし、そぉっと首を伸ばし、肉感的で柔らかい唇を重ねてくるのだった。

 ここで「ろくでなし」を辞書で引いてみると「何の役に立たない者、のらくら者」とある。「碌でなし」と書くことも多いようだが、その場合「碌」は当て字で、正しくは「陸でなし」と書く。「陸」を「ろく」と読むのは呉音で、他に、陸地を「ろくじ」と読んだり、陸屋根、陸墨など、陸の字を「ろく」と読ませる言葉がけっこうあったりする。

 漢字の、特に音読みに多様な読みがあるのは、漢字が日本に入ってきた時代と、その当時、中国を支配していた民族または王朝がその漢字にどのような音をあてていたかによるものであることは、ご存知の方も多いであろう。例えば、修行の「ぎょう」(呉音)、旅行の「こう」(漢音)、行燈の「あん」(唐音) などのように。

 そのうち、歴史的には呉音が一番古く、当時の中国南北朝時代の南朝(六朝)時代の首都健康(南京)付近で使われていた漢字音を、主に呉と交流のあった百済人が大和時代の日本に伝えたものが呉音であるとされる。別称、百済音、または対馬音とも呼ばれる。それゆえ、先の修行であるとか、経文「きょうもん」、成就「じょうじゅ」、殺生「せっしょう」などの語、または呉音でのみ使われる農業の「のう」、漁網の「もう」、城下町の「じょう」など、仏教にまつわる語や文化歴史的に非常に古い字音に多い。例えば「利益」を「りえき」と読むのは漢音であるが、「ご利益」と書いて「ごりやく」と読むのは呉音、普通の利益ではなく手を合わせて仏様から頂く利益は「りやく」なのである。また、男女を「なんにょ」、自然を「じねん」と読むように、呉音は漢音と比べ、マ行ナ行鼻音濁音が多く、まったりまろやかな感じを与えるため、日本語にもよく溶け込み、遊び人の「にん」などのように「あそび」という大和言葉などともしっくりくるのが特徴である。

 その後7、8世紀ごろになり遣唐使などによって大量に日本に持ち込まれた音が漢音で、当時の唐の首都長安辺りの発音であった。漢音は、先の呉音と並んで、またはそれ以上に現在の日本の漢字音の骨格をなすものであるが、江戸時代以前の庶民が知っていた漢字は、古くから定着していた呉音読みのものにほぼ限られていた。漢音が現在のように主流になるのは、明治時代に入り、欧米に追いつけ追い越せとばかりに、時の明治政府が欧米の事物・学問・文化思想・概念・社会制度を大量に輸入し、その訳語の読みにもっぱら漢音を当てたせいである。

 その遣唐使は894年に菅原道真により廃止され(受験で「白紙(894)に戻そう遣唐使」と語呂合わせを覚えた人も多いと思う)、以降しばらく日中間の交流は途絶えていたわけだが、鎌倉時代に入り再開され、室町から江戸期には再び盛んになっていく。その過程で禅宗の僧や貿易商人によって日本に持ち込まれたのが唐音である。呉音と漢音がほぼすべての漢字にわたる体系立った普遍的な読みであったのに対し、唐音にはそのような体系性はなく、僧や商人によって持ち込まれた特定の概念や事物を表す語と結びついた、非常に個別的断片的な性格の強いものであった。そのほとんどが、禅宗に関連した語や、商人によって持ち込まれた語であり、特に行燈(あんどん)、椅子(いす)、箪笥(たんす)、炬燵(こたつ)、湯湯婆(ゆたんぽ)、蒲団(ふとん)、吊灯(ちょうちん)、暖簾(のれん)、扇子(せんす)、饅頭(まんじゅう)、瓶(びん)などのように、日本人にとって日常的に非常に馴染み深く、同時に懐かしい気持ちにさせる語が多く、我々の生活の基礎がいかに鎌倉時代以降に中国から伝わった物で成り立っているかが分かり興味深い。

 さて、話を戻すと「陸でなし」である。「ろくでなし」の「ろく」の正字が「陸」であり、「ろく」が呉音であるのは分かったが、そもそもなぜ陸という字なのかである。この「陸でなし」の他に、「陸すっぽ(陸に、陸々)勉強もしないで」とか「陸な人間ではない」「陸なことにならない」などのように、陸は後ろに否定語を伴い、物事や人が正常でない、まともでない、満足いかないさまや状態を表すのだが、陸を否定するとなぜそのような意味になるのか、語源としてよく挙げられる最も一般的な説明は非常に分かりやすいものである。つまり、陸は陸地の陸であり、それは地面であり大地であり、それゆえに水平で傾きのない平らなさまを表し、そこから物や性格が歪んでいない真っ直ぐなさま、まともな状態を表すようになり、その否定語が今の「陸でなし」のような語につながったという訳である。うーん、ちょっと分かり易すぎやしないだろうか。そう思い、ネットをあれこれ調べてみると面白い説にぶち当たった。「ろくでなし」の「ろく」は「陸」ではなく、「六尺(ろくしゃく)でなし」が「ろくでなし」になったと言う説である。昔から葬儀の雑務に従事する人を六尺と言い、葬儀自体には何の役にも立っていない参列者は「六尺でない者」、そこから役立たずを「六尺でなし」→「ろくでなし」と呼ぶようになったと言うのである。

 しかしながら、その「六尺でなし」説、面白いのだが、そうであればなおのこと「陸でなし」でもいいのではないかと思うのだが。というのは、六尺=陸尺だからである。「陸」は漢音で「りく」、呉音では「ろく」だが、同様に「六」の字も漢音では「りく」、呉音で「ろく」であり、音が同じであれば意味も癒着するのは言語の常で、六=陸であり、だから一を壱、二を弐、三を参と書くように「六」の大字は「陸」なのである。それゆえ「六」も「陸」も同じで、どちらでもいいのである。

 元々「六尺/陸尺」とは駕籠担ぎなどの人夫を指す言葉である。その語源は「力仕事をする者」という意味の「力者(りょくしゃ)」が訛ったものであり、そこから、雑用などに使われる下男や下僕の意を表すようになったと言うのが通説だとされている。またそれとは別に、その元々の駕籠担ぎを六尺と言うのは、彼らが一様に六尺褌(ろくしゃくふんどし:六尺の長さの褌)をしていたからだという説もある。だがそれにも反論があり、元々六尺褌は六尺の褌ではなく、駕籠担ぎの六尺がしている褌だから六尺褌になったと言うのである。だったらその駕籠担ぎをそもそもなぜ六尺というのか、それは「力者(りょくしゃ)」が訛ったものであるという最初の話に結局戻る。その真偽のほどは定かではないが、「六尺褌をしていた力者」が「ろくしゃく」になったぐらいが妥当なところだろう。ここで思い出すのが「人力車」で、英語で rickshaw(リクショー)という。英語のリクショーは明らかに日本語の「じんりきしゃ」の「じん」が落ち「りきしゃ」が訛って出来たものである。細かな微妙な発音の違いはあるが、英語であれ日本語であれその他何語であれ、同じ人間が喋る言葉、その発声器官である口や喉の解剖学的な構造は人間ならばほぼ同じで、「リク」が「リキ」になったり「ロク」になったり、または「リョク」が「ロク」になったり「リキ」になったり、その音韻変化は世界のどこでも同じようなものなのであろう。

 上記のようにもし「りょくしゃ」が「ろくしゃく」になったのであれば、その「六尺/陸尺」は本来「力があって役に立つ者」の意であり、それゆえ「六」も「陸」もどちらも、ある意味において当て字であると言え、結局やっぱり「六」でも「陸」でもどちらでもいいということになる。以前、ろくでなしを「六でなし」と書くのは全くの誤りであると述べているのを何かで読んだ記憶があるが、ここでの話で行けば、六も陸も碌もすべてある意味当て字であり、碌と陸と六のどれが正しいかという議論など、正真正銘ろくでもない議論だということになる。で、ここで私は高らかに宣言したいのである。ろくでなしの「ろく」は正しくは「碌」でも「陸」でも「六」でもなく、つもりどれもろくでもない説明であり、唯一まともで正しいのは「力」なのである。その語源はもうお分かりであろう。それは「陸でない(ろくでなし)→平らでない→曲がっている→役立たず」でもなければ「六尺/陸尺でない(ろくでなし)→葬儀で何もしない→役立たず」でもなく、「力者(りょくしゃ)でない(ろくでなし)→力がない→非力である→役立たず」なのである。この新説、どこを探してもネットには出てこないが、考えれば考えるほど、この説が尤もらしく思えるのだが、我田引水が過ぎるであろうか?確かに「力」の音読みは「りょく」と「りき」しかなく「ろく」はないのだが、また歴史的に「力」を「ろく」と読ませる例はいくら探しても出てこないのだが、先ほど述べたように、「りょく」も「ろく」も「りく」も「りき」も言語の音韻の経時的変化の点から言えばどれも同じなのである。「りょく」が「ろく」になるのは朝飯前。試しに「りょくしゃ」を出来る限り早口で10回繰り返してみてほしい。最後には必ず「ろくしゃ」になっているはずだ。それに、「力」そのものには「ろく」はないが、肋骨の「肋(ろく)」も、弥勒の「勒(ろく)」も旁(つくり)に「力」を当てるではないか。という訳で「ろくでなし」は正しくは「力でなし」なのである。どうだろうか?無理がある?いやいや「力」だけに、ここは問答無用の力業でねじ伏せておきたい。

「ろくでなしじゃないの。ろくでなしっぽいの」
40年前の綾はそう言った。
私の上にまたがって大きく開いたTシャツの胸元からは、ほっそりとした体から想像もできないほどふくよかな、形のよい白い乳房が葡萄の房のように露わになっている。綾は平素からブラジャーをしない女だった。とにかく拘束というものを嫌う女だった。

 ろくでなしが辞書的には「何の役に立たない者、のらくら者」ほどの意味であることは先ほど述べた。だが人が何の役にも立たないというのはどういうことであろうか。ある人に天井の電球を変えさせようとしたが背が低すぎて役に立たなかったとか、固く閉まった瓶のキャップを外してもらおうとしたが、その人は握力がなさすぎてその役には立たなかったとか、そういう意味ではあるまい。先ほどの「ろくでなし」=「力でなし」論で言えば、非力なことを言うわけだから、その状況に当てはまっても良さそうであろうが、それはあくまでも語源の話である。ある語が、語源として使われていた意味合いと別のニュアンスや、より幅広い語義をその後獲得することはよくあることで、先の電球や瓶のキャップで示した状況において「あなたって本当にろくでなしね」と言うのはやはりしっくりこない。ろくでなしとは、そのような個々具体的な状況において、ある特定の目的を果たす能力に劣っているということではなく、常態的に社会や他人にとってまったく役に立たず、自らの意志で何ら生産的なことを少しも行おうとしない怠惰な生活態度、あるいは、そのような傾向にどうしても陥ってしまう気質、性分を指す言葉のように思える。また、「このろくでなしが!」などという使い方にも表れているように、のらくら他人に依存ばかりしていて、それでいて恩を返そうとしない、むしろ仇で返すようなその態度が、常識や社会規範に著しく反し、人に嫌悪感や不快感を引き起こすような場合が多いように思える。「このろくでなし!人間の屑!」と言い添えると非常にしっくりくる。だがその場合「人でなし!」と言うのとは少し違うような気もする。「人でなし」とは、人の道に外れ、もはや普通の人間とは思えないほどの逸脱、ぞっとするほどの異常性を感じさせる人や行動に向けられる言葉だからである。それは「犬畜生にも劣る!」「けだもの!」などともほぼ同義であり、それに対し「ろくでなしは」は「けだもの」ではなく、そのだらしなさが決して社会的に見て好ましいとは言えないが、それも人間の一部であるというような、どこか人間臭さを表す言葉ではないだろうか。とは言うものの、この当たりは非常に主観的なであり、どの程度のどのような状況に使うかは人によって大いに議論が分かれるところだろうと思うが。

「ろくでなしってなんだよ」
そう、形だけでも抗ってはみたものの、少なくとも私にはろくでなしの自覚があった。それはそうである。仕事も碌すっぽせず(「力すっぽ」と書きたいところであるが)毎日ぶらぶらして、女の部屋で惰眠を貪っていたりするわけだから、それがろくでなしでなくて一体何であろう。しかし綾はそれを「ろくでなしっぽい」と言うのである。

「だって、ろくでなしじゃないでしょ。ほんとはね。真面目なのよ」
それには何も答えず、私は綾のTシャツをたくし上げ、白い葡萄の房の先の、まだ淡い色をした一粒を口にふくんだ。私がそうしたのではない。私がそうしたくなるように、綾が体をずらし、私の顔の上に自分の胸を持ってきていたのである。少したるんだTシャツが私の視界を覆い、私の顔を撫でた。私は、何も考えず半ば自動的に綾のTシャツをたくし上げていた。
「振りしてるだけ。でも、そんなとこが好きよ」
私はひたすらただ黙々と綾のみずみずしい肌を貪っていた。貪っている振りをしていた。見抜かれていたのである。

 確かに私のろくでなしには振りの部分が大いにあった。いわば確信犯的にろくでなしを演じていたと言ってもいい。それは100%意識していたわけではない。私は根っからのろくでなしではなかった。私を表向きだけ知っている人は意外に思うかもしれないが、むしろ生真面目な方かもしれない。だが、どういうわけか、まともでないろくでなしな生き方に強く憧れ惹きつけられるようなところがあった。それが何から生じるのか、はっきりとは分からなかったが、親父を嫌う気持ちと裏腹であることは確かだった。とにかく、いわゆる真面目な人間という種族を毛嫌いしていた。真面目、好青年、爽やか、しっかりしている、頼もしい、つまり「ろくでなし」の対極であるそういった性質はすべて社会の常識的な判断基準に照らして決まるものである。その判断基準のすべてを貫いている尺度はただ一つ、社会にとって有用かどうか。私は、その有用性に潜む欺瞞や偽善といった胡散臭いものに人一倍敏感だったように思う。そして、その最低限の基準をも満たさない「ろくでなし」というものに何か生きる本質的な意味を見出そうと足掻いていたのかもしれない。

「私の方こそろくでなしよね」
「どうしてだい?」
「だって仕事の昼休みにこんなことしてるんだもの。ろくでなしよ。でもいいの。好きよ、あなたとこうしてるの。生きてるって気がする」

 蒸し暑く気怠い昼下がり、重く湿った空気、じっとりとした、弾力的で吸い付くような綾の、懐かしいような生暖かい肌を感じながら、あの当時の記憶の中の私はいつもジョー・ボナーのこの "Triangle" を聴いていたような気がする。綾が大好きだったのである。いつもいつもこのレコードをかけていた。少なくとも記憶の中の綾はそうだった。

Joe Bonner ジョー・ボナー:アメリカのジャズピアニスト。1948年4月20日、ノースカロライナ州ロッキーマウントに生まれる。両親はヴァイオリニストと歌手で、小学校時代から音楽を学ぶ。1970〜71年ロイ・ヘインズ、72〜74年ファラオ・サンダース、75年ビリー・ハーパー等のグループで活躍。その後、自己のグループを結成し、15枚ほどアルバムを残し、2014年11月20日コロラド州デンヴァーで心不全のため死去。

 相当のジャズ通でないと知らないかもしれない。2014年死去とあるが、特に、2000年以降は3枚しかアルバムを残しておらず、現代の若いジャズファンの間では存在感の非常に薄い、今では忘れられたピアニストの一人と言っても過言ではないだろう。しかしピアノ好きならば、知らないで済ますにはあまりにも惜しいピアニストであると思う。上記の略歴にファラオ・サンダース、ビリー・ハーパー等と活動と書いたので、スピリチュアル色濃厚な重厚なピアノをイメージする方も多いかもしれない。確かにその側面はあるが、そのピアノを一言で言うなら、ずばり、どこまでも初々しく瑞々しくリリカルなマッコイ・タイナー。ご存知ない方はこの機会にぜひ一度耳を傾けてみてほしいと思う。

 特に私のお薦めの一枚は、もちろんこの Triangle である。録音は1975年、ジョー・ボナー27才の作品で、ジャズミュージシャンとしていよいよ油が乗ってきた頃であるが、円熟とはまだまだ程遠く、怖いものを知らない、攻撃的な初々しい若さとエネルギーに溢れたアルバムである。クリント・ヒューストンの重厚かつ軽やかで、心地よいリフの印象的なベース音と、手数は多いが決してうるさくなく、軽やかでテクニカルな変化に富んだビリー・ハートのドラムのリズムを背景に、ジョー・ボナーのピアノはあくまでも清冽でリリカル。アグレッシブかつメロディアス。叩きつけるような重厚さの中にも天使の羽根のような繊細さと軽やかさを秘め、散りばめた宝石のような煌びやかな音色とメロディーはただ美しいだけではなく、スピリチュアルな深さに満ち、聞く者の胸に迫らずにはいられない。ぜひぜひ聴いていただきたい一枚である。特に好きな曲はB面1曲目の、いやCDを求めて聴かれる方は4曲目の VEGA。綾とのことを脳裏に思い描く時には、映画音楽のように必ずこがの曲が頭の中で鳴っている。そして最後の曲に、On Green Dolphin Street でも有名な作曲家ブロニスロウ・ケイパー作曲の、私の大好きな曲 Invitation を取り上げているのも嬉しい。ここでのジョー・ボナーは先ほど述べたジョー・ボナーらしさに加え、繊細な気品にも満ち溢れている。

 冒頭のアルバムジャケットは当時のLPの頃のものであり、今は中古品を除いて入手不可能となっている。CDで復刻盤が出ているが、ジャケットは異なり、こちら↓


 ある時、いつものようにその Triangle を流しながらベッドで睦み合っていると(いや、年がら年中、何をいたしていたわけではない。6畳に狭いキッチンだけで、とにかく狭いのである。くつろぐのは自然とベッドの上ということになる)、激しくドアを叩く音がした。ぎょっとして体を起こし綾を見ると、真っ青な顔をしている。そして声をひそめて「服を着て。服を」と囁く。「どうして?」と唇の動きと表情だけで尋ねると「あ、と、で」と綾も同じように黙って唇を動かす。私はもうほとんど事情を察してしまっていた。ドアの鍵は閉まっていたので乱入してくる恐れはなかったが、さすがに綾も気まずかったのであろう。二人とも素っ裸だったのである。

 ドアを叩く音はなおも止まない。
ドンドンドン「いるんだろ!分かってんだよ!」
ドンドンドン「返事ぐらいしろ!あやっ!」
 ドアの向こうの男が彼女のことをあやと呼ぶのを聞き、私の推測は確信に変わった。そして眉をひそめながら非難がましく彼女を睨むと、綾は目の前で手を合わせ「ごめん」と唇を動かした。なおもドアのドンドンは止まない。
「おい!あやっ!出て来れんのかっ?!出て来れんことでもしとるんか?!」
 出て行けないことをしているのは確かだった。
ドンドンドン「いるんだろ!トライアングルが聞こえてるぞ!」

 男はなおもドンドンをやめない。どうなるのか、どうするつもりなのか、固唾を飲んで見守っていると、綾は「仕方ないわね」とでも言うように投げやりな仕草でのろのろと立ち上がり玄関に向かった。人に服を着ろと言っておきながら自分は丸裸だった。長い黒髪を肩と背中に落とし、この世のものとは思えないほど優美な曲線を描きくびれた腰の、その均整のとれた一糸纏わぬ後ろ姿の立ち姿を私は初めてまじまじと眺めた。そして事態の深刻さも忘れ、その美しさに見惚れていた。彼女が裸だったので男を中に入れる心配はないだろうという計算も、確かに脳裏の片隅にあった。

 ドンドンドン!
「うるさいわね。いい加減にしてよ!近所迷惑でしょ!」
ドア越しに彼女は声を上げた。
「やっぱりいるんだな!開けろよ!男でもいるんだろ!」
 確かに。
 しかし綾はそれには一切答えず、つっけんどんな口調でドアに言った。
「かっこ悪いわね。みっともないでしょ。近所の人が聞いてるでしょ」
「だったらドアを開けて話ぐらいさせろ!」
 それも確かに。その男に対する綾の態度はあまりにも理不尽なように私には思えた。
「帰って!いいから帰って!またきちんと話しましょ。急に来られたって無理よ。今日は帰って。ドアをドンドンと叩いて大声を上げる人なんて嫌いよ!」
 私はドアの向こうの男がさらに逆上するのを恐れた。その男が怖かったわけではない。いや、今日は事なきを得ても、その男に付け回され、ある日ナイフをぶすっと・・・そういう恐怖もないわけではなかったが、それよりも何よりも、その男がこのまま喚き散らしながらドアを叩き続け、そのうち誰かが警察に通報し、警察官がやってきてあーだこーだ事情聴取をされ連絡先を聞かれ、などと考えるとあまりにも面倒臭く思えたからである。
 だが私の予期に反し、ドアを叩く音も男の声も、「ドアをドンドンと叩いて大声を上げる人なんて嫌いよ」という綾の言葉を最後にぴたりと止み、ドアの向こうはしーんと静まり返った。そして耳を澄ませているとその場から立ち去るらしき靴音がかすかに聞こえ、やがてそれも聞こえなくなった。

「帰ったのかな?」
「帰ったと思う」
「その辺で待ち伏せしてたりして」
「そんな人じゃないと思う」
「・・・」
「・・・」
 私は黙っている。彼女も黙って立ち尽くしている。相変わらず裸である。私は彼女を見凝め続けた。綾は、私が非難の目を彼女に向けているのだと思っていたのであろう。彼女も何かを言い返した気な顔で私を見続けていた。なんと私はずるい男であろう。先ほどとは違い、真っ直ぐこちらを向き、そのすべてが露わになった綾の裸身を、私は臆面もなく眺め続けた。誰かは知らぬが、その男が執着したくなるのも無理はない。この女は今は俺のものだ、私は悟られないように内心密かにほくそ笑んでいた。やはり私はろくでなしだった。と同時に、先ほどの男があまりにも不憫に思えた。俺も最後にはこんな風に捨てられるのか、という思いが脳裏をよぎった。
「少しひどいんじゃない?」
 しかし綾はその言葉を、その男に対してではなく、私に対してだと勘違いしたようだった。
「ごめん。言おうと思ってたの」

 さすがに素っ裸で立っているおかしさに気が付いたと見え、パンツをはきTシャツを着ながら綾は事情を話し始めた。事情と言っても何のことはない、前の男と別れないうちに次の男ができてしまった、ただそれだけのことである。その男が嫌になって別れたい気持ちを告げたが、相手はなかなか承知せず、怒ったり泣いたり拗ねたり追いすがってくる。その女々しい未練がましさがさらに彼女の気持ちを遠ざけるのだが、そうかと言って、暴力を振るったり包丁を持って追いかけ回したりするわけでもない。ただひたすら話だけでも聞いてくれと迫ってくる。綾も、心変わりをしたのは自分の方であるという負い目から、少しは誠意を見せなければと、つい情にほだされ話に応じてしまう。そんなこんなしているうちに私と関係を持ってしまった、という訳である。確かに、ろくでなしである。

「あんな人だと思わなかったの。女々しくて、しつこくて、すぐに焼きもち妬くし、やたら拘束してくるし。ごめん。早く白黒つけるつもりだったんだけど、でも根はいい人で、真面目で。だから、すっぱりという訳にもいかなくて。嘘ついてたわけじゃないのよ。ただ、なんかこう、ずるずると。ごめんね。でも、あなたといる間は一度もないから。信じて」

 しかし私は信じてはいなかった。というよりも積極的に信じようとも思わなかった。綾という女をよく知っているからである。そもそも私とこうなったのも、何となくこうなってしまったのである。だったらまだ関係の切れていない向こうとも、少なくとも最初の頃は、何となくそうなっていてもおかしくはない。

「やっぱり私のほうがろくでなしね」
 どっちもどっちだろう。私は、結果的に知らずに三角関係を続けていたわけだが、おそらく綾に、別れたいが別れられない男がいると告げられていても、たぶん綾とはこうなっていたであろう。綾も向こうを切るに切れず、私もそれを仕方ないと受け入れながら。どっちもどっち、どちらもろくでなしだ。

 その後、ご多分に洩れず、こういった茶番にありがちな、やがて収束に向かうゴタゴタがあり、綾は私とも彼ともどちらとも別れ、一人東京に去った。三文小説かメロドラマのような話であるが本当のことである。作詞家になりたいと言っていた。その後すぐ彼女とは二度ほど会ったのだが、それからはまったく消息を聞かない。言葉通り作詞家になったのかどうか、仮になっていたとしてもペンネームを使っているだろうから、元より分かる道理もない。

 その彼もその後どうしているのか、知りたくもないし知る由もない。ただ一つだけ私には気になっていることがあった。ドアの向こうで彼は「トライアングルが聞こえてるぞ!」と叫んだ。かつては彼も私と同じように綾の部屋でいつもいつも Triangle を聴いていたのであろうか。そして私同様、それが大好きだったのだろうか?ひょっとすると、そう、ひょっとするとである、あのトライアングルは彼のものだったのではないか?一度、それだけは尋ねてみたいと思っていたのだが、ついぞ聞けずじまいに終わった。いや、それで良かったのだろう。

 ちなみに復刻盤には合計6曲収録されている。1 Triangle 2 The Wind And The Rain 3 Mr. P.C. 4 VEGA 5 Miss Greta 6. Invitation である。しかしオリジナル盤は 1 Triangle 2 The Wind And The Rain 3 Mr. P.C. 4 VEGA 5 Invitation の全5曲である。おそらく復刻盤が出された時、5の Miss Greta がボーナストラックとして追加されたのだろう。つまり元々のオリジナル盤は6曲目がない、6がない、ろくでなしだったのである。私たちの関係は元々ろくでなしの三角関係だったのである。

(人名や店名など固有名詞は少し変えてあります。)